【明徳の乱。山名氏清死す。】
南海治乱記・・明徳元年、山名宮内少輔時煕同右馬頭氏幸(氏之)、頃年将軍家の命に違ふこと有て反逆を企つ。将軍家より山名陸奥守氏清同播磨守満幸をして是を討しむ。細川入道常久、四国の軍兵二万余人を率て中国に発向し山名が領に攻入り諸城を圍む。時煕氏幸、城を去て行方を暗くす。残党悉く討破り氏清満幸も上洛す。細川常久も其逆乱を静て四国の兵を斑(かえ)す。同二年、常久上洛して将軍家に謁す。将軍家より大舘氏信を以て常久に告て執事に還任せしむ。常久老たるを以て其子細川讃岐守頼元に代て退く。此時より斯波細川畠山を以て三管領として廻り持に執事職を勤る。 (細川頼之、執事職を辞して四国に帰るの記;巻之一)
讃州細川記・・明徳二年、山名陸奥守氏清、将軍ヲ傾ント欲シ大軍ヲ催ス。同年十二月晦日、京都内野ニ於テ防戦。当国ノ兵ニハ香川・香西・奈良・安富ヲ大将トシ、頼之公ニ従ヒ責戦。岡・石丸・漆原・由佐・龍満・乾・横井等、公ノ御馬ノ前後ニ附添テ、魁立々々責ケレバ、山名終ニ討負戦死シテケリ。 (内野合戦之事;「香川叢書 第二」所収)
図1.新田氏一門の嫡流に近い山名氏系図の一部。一族間の対立関係を色分けしている。(「本朝尊卑分脈」より抜粋、一部合成)
(国立国会図書館デジタルコレクションより転載、一部合成)
明徳の乱は、明徳元年〜2年にかけて山名氏が幕府に対しておこなった反乱である。それが幕府自体の転覆を謀ったものか、“御所巻”をして義満本人の屈服のみを目論んだものかは意見の分かれるところであろう。しかし、けしかけたのは義満の方で、一族内の不和を利用してその一方を擁護し、他方を心理戦で不安にさせて挙兵させるという手法は、先年の土岐康行の乱(⇒❡)で義満が成功した“守護家潰し”策を踏襲したもので、後の嘉吉の乱や応仁の乱でも普通に用いられる足利将軍家のお家芸となっていくのである。山名氏は清和源氏義家流の嫡流(あくまでも系図上)に近い新田義重を始祖とし、庶子である義範が上野国多胡郡山名郷を本貫地としたことから山名姓を称するようになった。山名時氏は足利尊氏挙兵に当たって当初は新田義貞らとともに従い、尊氏離反後も尊氏側で戦って名和長年や塩冶高貞討伐に功を挙げ、北朝の伯耆・丹後・出雲・隠岐の守護となる。観応の擾乱では嫡男の師義と敵対して南朝側につき義詮を京から追い落としたりしている。南朝の衰えが見えてくると所領の安堵を条件に北朝に帰順し、時氏は伯耆・丹波、子息の師義は丹後、氏冬は因幡、時義は美作の守護に任命された。北朝では一貫して反頼之派の武将であった。時氏の死後も多くの子息がそのまま守護を継承拡大し、惣領の師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となる。師義子息の満幸は康暦の政変後、出雲国守護も獲得している。こうして全国66国のうち11国を支配し“六分一殿”と呼ばれるようになった。その最大勢力を色分けして示したものが図2.である。特に京の西と南はほとんど山名一族で占められており、そのあまりの強大さに義満が粛清を決意せざるを得なくなるのも道理とも言えよう。
明徳の乱については「明徳記」(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開⇒❡)に詳しく、足利義満が山名氏清に紅葉狩りの招待をすっぽかされて都に帰る際の道行き文「時雨に争ふ真木の島、紅葉映らふ朝日山、暮れ行く秋もさむしろに、衣片敷く橋姫の、昔を問へば橘の、小島が崎も程近し・・」(⇒❡)の美しさは「落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦をきて帰る、嵐の山の秋の暮れ、・・」に始まる「太平記 巻第二」(俊基朝臣再び関東下向の事)と双璧とされ、構文も「太平記」を参考にしているためか比較的読みやすい。しかし、乱自体は畿内や中国を中心におこなわれたため、ここでは細川頼之が係わった部分にのみ焦点をあて、項目に分けて簡単に説明するに留めようと思う。
図2.山名氏の最大勢力と、細川、大内、今川氏の勢力図。備後国は明徳元年(1390年)に細川頼之が守護となる。
1.
山名師義の死
山名師義は時氏の嫡子であり、観応の擾乱で時氏が直義側に寝返り南朝となっても、尊氏に従って軍功を立て丹後・伯耆・但馬守護に任じられる。しかし、若狭国の所領の知行を佐々木道誉に妨害されたことに怒り、南朝に帰順し足利直冬を奉じて北朝方の赤松則祐と争い、中国地方における勢力拡大に務めた。この時代、山名氏の勢力拡大はおおむね順調であったが、当然のこととして先取権を持つ出雲国の佐々木(京極)氏や美作国の赤松氏と闘争を繰り返すようになる。所領安堵を条件に北朝に帰順し永和2年(1376年)に死去。嫡男の義幸は若年のうえ病弱で、惣領の地位は弟の時義に与えられたが、これを兄の氏清とその甥の満幸(氏清の娘婿でもある)が不満を抱き一族の不和を生じた。
2.
山名時義の死
不満は一族内で燻りながらも、康暦の政変で細川頼之が追放されると反頼之派の山名氏は最大領土を獲得することに成功する。京に近い国ばかりなので義満もおおいに危機感を抱いたに違いない。その削減策を練るために宇多津に頼之を訪ねた2ヶ月後の康応元年5月4日、時義は死去した。その遺領は嫡子の時煕と養子の氏之に与えられたため、無視された氏清と満幸の不満は頂点に達した。
3.
時煕と氏之の追放
頃合い良しと判断した義満は、時義、時煕、氏之に兼ねてから不遜な態度が目立つとして、氏清、満幸に討伐を命じた。“兼ねてからの不遜”とは何かと言うことになるが、「明徳記」では「武恩莫大なるに驕りて、此一家の人々、毎時上意を忽緒(ないがしろにすること)し奉る躰なりし中に、山名伊予守時義、但馬国に在国して、京都の御成敗にも応ぜず、雅意に任せて振舞ひける間、誠に御沙汰あらばやと思召し立たせ給ひける刻、病に冒されて、伊予守早世しぬる上は、力なく思召されけるに、其遺跡の輩、伊予守(時義)宮内少輔(時煕)右馬頭(氏之)以下、猶過分なるのみならず、父祖の悪逆は、子孫に酬ふべき理に任せ、彼等を御退治あるべきにて、其国の討手をぞ下されける。」と時義への恨み辛みがその子らへの巻き添えとなったようで今ひとつ判然としない。義満の性格からすると、厳島参拝の砌に時義が病気を理由に拝謁しなかったこと(⇒❡)にも遺恨に持ったであろうし、だいたい将軍の偏諱とも取れる“義”の字をそのまま親子に亘って山名家通字の“時”や“師”の下に置いたままにしているのも不遜といえば不遜であろう、かの河野通能は義満から“通義”を名乗るよう“義”字を下賜されたが、余りに恐れ多しとして同じ読みの“能”字に変更したことを思い起こしたかもしれない(⇒❡)。いずれにせよ、寝耳に水の討伐命令で大いに狼狽えながら合戦準備もままならず、両者は領国を捨てて没落した。細川頼之は四国勢を率いて備後(時煕の守護国)に出兵している。「南海治乱記」の記事はこのときのことであろう。「明徳記」にも「又細川武蔵入道常久は、四国より押渡って、備中(おそらく備後の誤り)の国を退治して・・」と短い記載がある。おそらく、このあたりの行動はすでに宇多津で義満と策定済みであったと思われる。この後、備後国守護は頼之に与えられた。
4.
時煕、氏之の赦免と義満の挑発
時煕、氏之追放後、氏清と満幸の勢力が拡大した。ここからが明徳の乱の核心部分である。翌年の明徳2年、追放された二人は京都に舞い戻り赦免を嘆願し、義満もこれを許すという噂が立った。折しも10月に氏清が別邸に義満を招いて紅葉狩りを計画したが、疑心暗鬼に駆られた氏清は将軍がすでに到着したにもかかわらず、病と称して饗応しないという大失態を演じてしまった。厳島詣でにおける時義の二の舞を演じてしまった訳である。怒った義満はそのまま京に引き上げたが、そのときの道行き文が先にあげた「時雨に争ふ真木の島・・」である。11月には今度は満幸が、出雲国の上皇領を押領して御教書にも従わなかったと言う理由で守護職を剥奪され京を追放された。怒った満幸は堺にいる氏清を縋り「抑も近日京都の式法、何とか思召され候、只事に触れて、此一門を亡さるべき御結構なり。・・」と挙兵を迫った。さらに紀伊守護の義理も何とか説き伏せて南朝に下り「錦の御旗」を手に12月19日に満幸は丹波から、氏清は和泉から都に攻め上った。
5.
内野合戦
ところが、氏清は途中で河内国守護代の遊佐国長に阻まれて京への到着が遅れ、満幸の軍勢とは別々に内野に突入した。内野とは平安京大内裏のあった場所で当時は荒れ地となっていた。秀吉の時代には聚楽第が建築されている。歳の暮れが迫っての山名氏の急激な進撃ではあったが、義満側は万全の態勢で布陣しており、細川氏、今川氏、大内氏を始め畿内における有力守護の軍勢で正面から決戦を挑んだ。「明徳記」には「(十二月二十五日)、其夜召に依って参じける人々には、先づ細川武蔵入道常久、舎弟右京大夫頼元、同淡路守、畠山右衞門佐基国、子息弾正少弼、今川上総介泰範、同左衞門佐仲秋、一色刑部大夫、勘解由小路治部大輔義重、大内介義弘、赤松上総介義則、佐々木治部少輔高詮、我も我もと群り参られけり。・・」とあって中には懐柔策を説く武将もいたが義満は「然らば当家の運と、山名が一家の運とを、天の照覧に任すべく云々」と断乎、決戦を主張したのである。かたや氏清は「新田左中将(義貞)は、先朝の綸命を奉って、征夷将軍職に居って、天の政務に携りき。我も其氏族として、国務を望むべき條、其謂れ無きにしもあらず。先年事の序ありし時、南朝より錦の御旗を申し給って今にあり。此度先例に任せ、此旗を戦場に差揚けばやと思ふなり。・・」と尊氏と義貞の戦いに自らの身を重ねて陶酔し家臣の小林義繁を呆れさせている。もしこの戦いに勝利すれば南朝を復活させ将軍家を亡ぼそうと本気で考えていたのであろうか? しかし、義満側はこうなることを予想して事前に周到な準備をおこない西国の有力な守護一族や山名氏に敵対する赤松、佐々木(京極)家の軍勢をすでに都に集結させており抜かりなく山名軍を待ち受けていたのである。おそらく2年前の厳島詣での際に頼之と密談してその戦略はすでに出来上がっていたのであろう。
戦いの詳細は省略するが、12月30日に両軍は激突、満幸は細川、畠山、佐々木軍と交戦、氏清は大内、赤松軍を撃退したが一色、斯波の援軍が加勢して苦戦、最後には義満自らが馬廻衆など三千騎を繰り出して陣頭に立ち山名軍は総崩れとなった。「明徳記」には「御所も大宮の合戦御合力あるべしとて、御旗を進められければ、左馬頭殿(右馬頭?頼之)を始め参らせて、近習外様御馬廻、都合御勢三千余騎、神祇官の西二条通りへ、駈出でさせ給ひ、東西四五里が間、響く計に鬨を三度作り懸け、大山の崩るるが如くなり。」とあって後の将軍直属となる奉公衆(親衛隊)の芽生えをみることができる。また、「讃州細川記」には頼之に従った“井原侍”
(⇒❡)を中心とした讃岐武士団の名も記録されている。混乱の中、氏清は潰走の途中で一色勢に囲まれてあっさりと首を取られ、わずか一日で勝敗は決まった。満幸は山陰を経て九州まで落ち延びるが、応永2年に都に潜伏しているところを発見されて斬られている。戦いを傍観した紀伊の義理は赦免を申し出るが許されず守護職を解かれ、代わって紀伊国守護となった大内義弘に攻められて没落した。
6. 戦後の論功行賞と頼之の死
翌、明徳3年正月におこなわれた論功行賞で11ヶ国に及んだ山名氏の所領は、時煕に但馬、氏之に伯耆、氏家に因幡のみが安堵され残りの8ヶ国は没収、替わって山城は畠山基国に、丹波は細川頼元に、丹後は一色満範に、和泉・紀伊は大内義弘に、美作は赤松義則に、隠岐・出雲は京極高詮に与えられた。こうして、この戦いで山名氏は一時、衰退するも続く応永の乱、嘉吉の乱で著明な戦功をあげ再び勢力を盛り返した。時煕の孫が持豊で応仁の乱で西軍の大将となった山名宗全その人である。一方で、最高の軍師とも言える細川頼之は山名氏討伐の成功で肩の荷が下りたのかふとした風邪がもとでその年の3月にあっさりと死去した。細川頼之補伝(細川潤次郎 明治24年⇒❡)によれば、頼元を通じて義満に託した遺言で「頃年山名氏清、動セレハ節制ニ違ヒタリ、某命ヲ終ハラセル前ニ芟除(鎮圧すること)セント欲スルコト久シ、今已ニ誅ニ伏ス、幕下英武、天下将軍ノ命ヲ拒ム者ナカル可シ、其死シテ瞑ス可シ。」と言わしめている。この大乱に勝利したことで半年後には南北朝統一も実現し将軍義満の権威は盤石のものとなった。思えば義詮からその死に瀕して義満を託されて以来、政敵に囲まれわがままな義満の性格に翻弄されながらも無二の征夷大将軍にまで育て上げた頼之は、「臣、敢えて股肱の力を竭(つ)くし、忠貞の節を効(いた)し、これを継ぐに死を以ってせん。」とした諸葛亮の決意をそのまま地で行くような生涯であったとも言えよう。義満が劉禅のように暗愚にならなかったのもまた、頼之の教育に対する能力の表れであると小生は思っている。まさに「教育は国家百年の大計」なのである。
図3.明徳3年、堺にて氏清に反乱を唆す満幸(左)と、義満の首実検にかかる氏清の首級(右)。
(「少年日本歴史読本
第14編(足利義満」(博文館 大正2年)より転載、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)