金心正義録・・・(細川)左兵衛之尉則弘ハ、足利家滅亡シ、差シタル敵ナク、父歿後、唯昼夜法華経を書写シ、累代先祖親属竝ビニ亡士卒等ノ苦ヲ抜キ楽ヲ与ヘ、兼テ自身ノ出離生死資糧ノ為ニ、心ヲ澄マシテ居タリケリ。然ル所、長曽我部土佐守元親・宮内信親等、兵ヲ発シ処々ノ神社仏閣ヲ破却シ、我威ヲ誇ル。之ニ依リ神宦僧徒、則弘ノ許ニ来テ曰ク、土州軍卒、当国ニ乱入シ、神殿仏寺ヲ破リ悪逆無道ノ罪科ハ勝計スベカラズ。大将必ズ下知為サシメザレバ、仁者ハ必ズ勇有ルモ、勇者ハ必ズシモ仁ナキハ習ヒ也。大将ハ至テ勇猛ナル故ニ士卒随テ悪行ヲ為スナリ。今彼勢ハ、秦始皇ガ六国ヲ竝セ、漢ノ文慧ガ九夷ヲ順ハセルニ異ナラズ。霊地ハ軍馬ノ蹄ニ懸リ仏像経巻ヲ損シ神器霊宝ヲ壊スルヲ、族、俱ニ見ルニ忍ビズ。乞願ハクバ、貴方兵ヲ集メテ之ヲ防ギ玉ハバ国ノ幸ヒ、人ノ悦ビ、何事カ之ニ如ンヤ。則弘之ヲ聞キ、然ラバ勢ヲ催スベシトテ近在ノ武士ヲ招ク。先一番ニ野崎四郎時安主従二十騎、志度出雲助国詮・神前為之進・長小田重郎等追々馳来リテ、都テ其勢四百余騎也。先ヅ要害ヲ堅ムベシトテ、南ヨリ蓮田池邊迄一里計ノ間、鹿垣ヲ構ヘ、後ニ湛ヘタル川水ヲ塞ギ、処々手配ヲ定ム。野崎四郎・志度出雲助・神前為之進・長小田重郎等二百余騎、宝蔵院ノ原ニ出張テ構ヘ、極楽寺同宿中坊経雲・湛元坊道順・林常坊祐玄・妙勝・阿闍梨来尊、貴僧高僧等、解脱同相衣ヲ脱テ、堅甲利兵ニ貌ヲ替ヘ我モ我モト出立ス。新井川小四郎為長・長町四郎・中村三郎・日下太郎兵衛國高、此等ハ僧徒侍ト為テ其勢一百余騎、大日ノ原ニ陣ヲ取ル。
大将左兵衛尉則弘、子息國弘ニ向テ曰ク、今度ノ戦、容易ナラズ。殊ニ我ニ属スル者ハ旧交ニ因テ順フト雖モ、我ガ為ニ命ヲ棄ル者ハ之有ルベカラズ。事難儀ニ及ンデ、義ニ依テ命ヲ軽ンズルハ弓箭ノ習ヒ也。我レ討死ト聞バ、汝モ城ヲ焼テ討死スベシ。我敢テ元親ニ於テ従来遺恨ハ無シト雖モ、彼ハ仏神ノ敵ニシテ黙止シ難キ禦戦ノ者也。殊ニ八幡神社ヲ破壊ス。八幡宮ハ源氏累代ノ氏神也。加之(しかのみならず)、汝、母ガ胎内ニ有シ時、陰陽師占テ曰ク、懐朶ノ子ハ女子也。是、家亡滅ノ相也。之ニ依テ、夫婦倶ニ小十九間(こそくま)ニ参籠シテ祈ルニ、第七夜夢ニ利剣ヲ呑ムヲ見タリ、覚テ我ニ語ル。是レ変ジテ男子ト成ル瑞ナリ。悦ビ居ル所ニ、終ニ月満テ汝ヲ出生セリ。是、偏ニ神恩ノ厚キ所也。然レバ家ノ為、身ノ為、彼ハ重キ怨敵也。汝、若年ト雖モ我ガ一言忘ルルベカラズ。
本城ニハ子息國弘・畑三郎顕重・三角次郎・同入道堅秀・長坂亘・河田清之助、是等兵五十余騎残シ置キ、大将則弘、加藤次郎左衛門定盛・須防入道行経・畑四郎次郎利兼・関孫十郎高宗・小倉新兵衛定安・広瀬八郎政俊・氷原運平・浅間三之助・梅輪鹿郎等、其外譜代ノ老弱都合百余騎ノ兵ヲ引卒シテ、蓮田里ニ出張シ陣ヲ堅クス。時ニ于テ寄手ノ軍兵ハ常憐城ヲ靡セ、勝ニ乗テ此邊ヲ横領セント前山ヲ歴テ押寄セル。然ト雖モ兼テ要害ヲ堅メケレバ、輙(たやす)ク寄難シ。夜ニ入テ吉野ニ廻テ上内原ニ陣ヲ取ル。頃ハ天正十年八月廿日ナレバ、草葉ノ露鎧ヲ濡シ、明ルヲ遅シト待居ル。夜モ若々ト明ヌレバ、敵モ味方モ旗ヲ挙ゲ、互ニ凱ヲ歌(つく)ッテ攻寄セル。寄手ノ大将ハ狼藉ノ張本、岩田雲長・一宮平四郎等、敵旗ヲ見テ曰ク、何様トモ覚ヘヌ軍勢也。此ノ間ノ威勢ヲ聞テ、怖レザルハ勇々シキ剛者哉、一騎モ残ラズ討取ルベシ。五百余騎一手ト為テ、先前(まっさき)ニ進ンデ懸合ヒ、面モ振ズ攻戦シテ鍔音天ニ響キ、汗馬東西ニ馳違ヒ、馬煙四方ニ煙リ、或ハ組テ首ヲ取リ、或ハ馬ヨリ切落サレ、尸(しかばね)路径ニ横タハリ、朝日ニ映テ草露、珊瑚ヲ曝スガ如シ。半時計リ戦ヒ、曠原忽チ地ニ易タリ。敵身方互ニ息マント慾シ、双方颯ト開ヒテ、弓杖ニ縋ッテ立リ。然所ニ須防入道行経、卯ノ花威鎧ニ鍬形打タル甲ヲ猪頸ニ著キ、雲雀毛ノ馬ニ白泡沮(はば)セテ、唯一騎敵方近ク騎寄セ、大音声曰ク、細川則弘之内、鬼神ト呼所(よばしし)須防入道行経、年老タレド主君ノ為ニ一命ヲ抛タン。望ム人有ラバ出合タマヘト伐テ掛ル。岩田雲長之ヲ見テ、頸ヲ取テ高名セント、五尺二寸ノ太刀ヲ抜キ、引側蒐向ヒ二打三打打ツ所ニ、一宮平四郎、岩田ノ脇ヨリ走リ抜ケ、須防入道ノ後ニ廻テ大鑓ニテ馬手股ヲ突ク。須防透サズ鑓鉾先ヲ掴ミ、奪取テ二人倶討留メテ、弓手馬手戦ヒタリ。左兵衛尉遙ニ之ヲ見テ、傍ノ朽木ニ登リ、三人張ニ十二束ノ大弓ヲ引堅メ引ト発、其矢過タズ一宮ノ背ヨリ右脅(あばら)迄、草目ヲ通シテ矢根ヲ見ハセバ、鑓ヲ捨テ小膝ヲ突テ臥シニケリ。雲長之ヲ見テ叶ハズトヤ思ヒケン、鞭ヲ棄テ打テ引返ス。須防入道勝ニ乗テ追懸ル。畑四郎次郎・加藤次郎左衛門二人ハ、須防入道ヲ討セズト小長刀茎短(くきみじか)ニ取テ渡合フ。雲長前後ニ途ヲ失ヒ、迯方無ク切岸ヨリ転落シ、二間計下テ細道ニ落チ立上ル所ヲ、畑四郎続テ飛下リ引組テ首ヲ取ル。然ルニ二陣ノ勢、一手ニ成テ攻戦ヌレバ、寄手軍五百余騎右往左往ニ引退ニ、案内モ知ラズ山道ヲ何処トモナク迯ゲ惑フ。定盛・行経・利兼等、喚キ叫ンデ追掛ル。敵、為方無ク長谷尾池ニ行当リ廻ル事急也。渉ラント為スモ底ヲ知ラズ。如何セント波打際ニ彳(たたず)ミタリ。爰ニ真部次郎丸トテ黠(こざかし)キ者進ミ出テ言フ、惣テ斯処渡ルニ深水ヲ知ラズ、先ヅ馬ヲ追渡シ瀬踏ヲサセ、其跡ヨリ渡スベシト我父常ニ教タリト。已ニ馬ヲ追ヒ湛水ニ入レ難無ク向ヘ渡タリ。之ヲ見テ諸軍勢皆一同ニ騎入レシガ、或ハ沈ミ或ハ鞍ヲ傾ケ、水ニ溺レ死者数ヲ知ラズ。中ニモ馬乗達ツ者漸ク渡得タリ。追手勢是迄ト喜ビ勇ンデ帰リケル。
其頃、元親香西ニ屯ヲ堅クシテ居リシガ、是事ヲ伝聞シテ、士卒軍令ヲ破ル條、我未ダ之ヲ知ラズ。元親、後代ノ名ヲ穢セリト言テ大ニ怒リ、即、張本ノ雲長ノ弟、岩田六郎ヲ禁メケル。其後、大町邑ニ於テ処々ノ狼藉者六人ヲ討罰スルニ其中ニ加ヘタリ。誠ニ良将ノ道ハ是ク有ルベキ也。之ニ依テ、処々ノ乱逆静リテ万民大ニ悦ケル。土佐ノ軍勢等、畑・須防・加藤三人ノ為ニ多勢ノ軍卒ヲ悩マス者ノ不思議ヲ尋レバ、則弘、矢ヲ発シ時、敵方ニハ俄ニ天掻曇リ電閃キ、大雷鳴霆(はため)キ、其音、山モ崩ルルヲ覚ヘテ怖畏レケリ。其時、虚空ヨリ黒雲一村舞下リ、其中ニ身長一丈余ノ色青黒キ者、身ヨリ火炎ヲ放チ、白牛ニ乗テ、手ニ独鈷ヲ持テ擲付ルト一宮ニ見ヘシガ、乍チ一宮馬ヨリ落テ死セリ。之ヲ見テ周章テ騒デ迯タリト。寔ニ則弘、護神ノ社仏寺ヲ禦グ為ニ抜群ノ働キ、偏ニ仏神ノ加護ナラント云ヘリ。岩田・一宮ガ首衢(ちまた)ニ曝ス。時人皆曰ク、電光朝露ヲ以テ僅ノ欲ニ耽リ悪行ヲ為シ、年ヲモ阻テズ天罰身ニ迫リ、未来永劫苦患遁ルベカラズ。生ヲ武門ニ受ケ弓箭ヲ執ルハ常ノ習ヒナレドモ、無益悪逆ヲ作スベカラズ、野人尊老ニ至ルマデ皆我身上ヲ慎ムベシ。 (土佐勢発向ノ事 附蓮田合戦ノ事)
(国土地理院航空写真(昭和22年)を使用。拡大は画像をクリック!)
「蓮田合戦」については、「南海治乱記」に記述はなく、この「金心正義録」も妖怪変化の登場する講談語りの要素も多々あるので一概に信用することはできないのだが、登場する細川則弘が白峰合戦(⇒❡)で戦死した細川清氏の末裔であることや、大坂夏の陣の後で真田幸村が一時潜伏したという奇抜さによって読む者を強く惹き付ける魅力に富む記録である。さて、清氏の寵愛するある側室が讃岐の白山陣地に来て生んだ“美津次丸”が清氏の滅亡後、乳母である関蔵人夫妻の縁を頼って石田に来て代々、細川家として存続したという。最初は石田城を根城としていたが安富氏に奪われて近くの國弘城に移ったとも、或いは同じく落ち延びた西長尾城の中院源少将一族に石田城を譲ったとも伝えられる。頼之の直系が支配する地で清氏の子孫が存続できるとは些か信じがたいが、この石田の地は古くは塩木合戦(⇒❡)を始め、三好氏の介入(⇒❡)を許すほど安富氏と寒川氏の争奪の舞台でもあったため、双方の緩衝地帯として微妙な平衡の上でうまく立ち回れたのかもしれない。「金心正義録」では、二百年以上も清氏の仇討ちを心懸けて南朝の隆盛を夢見て臥薪嘗胆する日々が描かれているが、もしそれが事実なら後南朝の遺臣をも凌駕する希有の忠臣と言うこともできよう。
さて、由佐城や三谷城を抜いた長宗我部軍は、十河城を包囲するとともに寒川氏の本拠地、池内城まで侵攻する。すでに大川郡を失い昼寝城に退去した寒川氏に抵抗をする余力はすでに残っていなかったのではないだろうか?土佐勢は同氏の池内城(亀鶴公園南)を占拠、根城とするとともに雨滝山の安富氏に攻撃を開始する。細川氏の楯籠もる石田の地はその途中にある訳だから、この「蓮田合戦」は「金心正義録」では天正10年8月とするも、実際は長宗我部元親自らが来攻した天正11年5月以降とするのが正しいのではないだろうか。「全讃史」でも、石田城(小十九間城)陥落は天正11年5月としているので、当年表も「全讃史」に従っておいた。
「金心正義録」の記事をそのまま信用することは危険だが、取りあえず合戦の模様を順を追って見ることにしよう。上の航空写真と照らし合わせていただくと良い。
D池内城(原典では常憐城となっている。常憐城は神前北東部の男山神社付近であるから、ここは寒川常憐の居城である池内城を取った)を発向した土州軍は東進し吉野を経て安富氏の石田城を攻撃する。その時、細川氏の崇敬する小十九間八幡宮(石田神社)が破壊された。
C國弘城を本拠とする細川則弘は、八幡宮が破壊されたことに激怒、元親を神仏の敵と見なして機先を制する戦いを挑む決意をする。宝蔵院極楽寺の僧兵にも協力を依頼しつつ、本陣を國弘城に定めて大将は嫡子の細川國弘とした。
A大日之原(上内大日堂付近)には、新井川小四郎為長・長町四郎・中村三郎・日下太郎兵衛國高ら100余騎が僧徒とともに布陣する。長町四郎は、共に南朝方として戦った中院源少将の後裔と思われる。
B宝蔵院之原には、野崎四郎・志度出雲助・神前為之進・長小田重郎等200余騎が僧徒とともに布陣する。
E土州軍の岩田雲長・一宮平四郎等は夜の間に吉野を廻って北上し上内原に陣を取る。彼等は神社仏閣を破壊した狼藉者で、「正義録」では小十九間八幡宮を破壊した張本人とされる。
@大将の細川則弘、須防入道行経らは城から打って出て、翌朝(8月21日)に蓮田里で両軍が激突。須防入道の抜け駆け的な活躍と則弘の強弓によって岩田、一宮は両名は無残な討死を遂げた。蓮田池は不明だが、おそらく現在の東王田付近の湖水を指すのだろう。大将二名を討たれた土佐軍は混乱し退却するも長谷尾池(不明)を徒渉する時に多くの兵将が溺れ死んだという。
なお、この二人は“一宮”とあることから阿波勢とも考えられるが、「寒川町史」によれば徳島、高知の所管に照会するも不明とのことである。按ずるに、一般に先鋒と称する部隊は本軍の精鋭部隊が務めるのが常であるが、後の掃討戦はやや規律の乱れた後方の二軍が担うことが多く、こうした部隊は往々にして掠奪や破壊行為が為されて地元の評判を落とす元凶となっている。織田信長が入京して人気を勝ち取ったのも軍律を厳しくして狼藉をいち早く禁止する措置を取ったからで、「正義録」でも冒頭で述べているように、長宗我部軍が今も讃岐で悪しく言われるのは、占領地の最初の対応が悪かったことに尽きるだろう。岩田、一宮もそうした掃討部隊の部隊長程度だったのかもしれない。元親は戦いの後、この二人の首級を衢に曝して罰したと言うが、これは、六万寺を焼失させた狼藉者を斬罪に処したことにも重なっており、一宮が射殺される時の則弘の神秘体験と破壊行為に対する因果応報を戒めるフィクションの可能性も少しは残る。
以上のように、この蓮田合戦は、細川則弘の大きな事蹟として伝えられているが、実際は500m内外で行われた局地戦に過ぎず「金心正義録」の記事も全部を鵜呑みにすることはできない。しかし、領土を侵されたことよりも神社仏閣を破壊されたことが戦いの第一義というのは興味深く重要で、多くの寺社の記録が「天正年間に兵火に罹って・・」とか「長宗我部軍によって・・」としか表現されない中で、絶望的な状況でも果敢に攻撃を仕懸けた細川氏の行動は、金毘羅大権現の「賢木門」の伝説とともに、今も怨嗟の声の絶えない讃岐人の心に痛快さを与えてくれる貴重な”説話”とも言えよう。
細川則弘の嫡子の國弘も弓の名手で知られる豪傑で妖怪退治でも有名だが、「全讃史」には、「元和二年秋九月、真田幸村、坂府より亡げて此に至り、國弘氏に寄食すること、二年なりき。男あり真田権左衛門之親と曰ふ。之親に女あり。國弘の孫、孫大夫之を娶とる。其の後姓真田氏と冐す。」とあり、「寒川町史」にもそれについての詳細な調査がある。どういう経緯で真田幸村が石田の地に来たのかはよくわからないが、その子孫が今も健在であるというのは実に喜ばしい限りである。細川清氏や真田幸村という時の権力に反抗して滅びた英雄の子孫が自在に跋扈した石田の地は、些か大袈裟かもしれないが、日本のプチ“梁山泊”と言えるのではないだろうか・・?