南海治乱記・・・天正十三(酉乙)三月、秀吉公紀州征伐の時、長曽我部元親より谷忠兵衛を使者として和平を乞しに因て阿波讃岐伊豫三ヶ国をさし上、屹度上洛すべし、土佐一国を下し賜べき由を命ぜらるると云へども、其請なき故に五畿内の兵卒六萬餘人を揚て大和中納言秀長、三好中納言秀次を軍将として阿波国に発向せしむ。毛利輝元の兵四万人を揚て吉川元春、小早川隆景を軍将として伊豫国に発向す。備前美作の兵二万三千人を揚げ浮田八郎秀家を軍将とし蜂須賀右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を𢮦使とし讃岐国に発向す。然して秀吉公は泉州岸和田の城に御陣を居させ玉ふ。同四月二十四日、大和中納言秀長卿泉州堺の浦より出船在て、同廿五日に淡州福良浦に著て兵船を揃へ、阿波の国土佐泊に著玉ふ。三好中納言秀次卿は丹波の兵卒を率して播磨国出て淡路の岩屋に渉り、大和和泉の兵卒淡路の洲本に著陣して一所となる。両将の兵六萬餘人を手分して阿波国へ出陣す。

           土佐の兵は阿波の撫養、木津の城を築て三好先方の兵将、東條紀伊守が弟、東條関之兵衛を置れける。手先の城なれば能き武者を撰び籠置る。和州秀長、四万の大兵を挙て八日強く攻れども陥ず、秀長より扱を入て城を明させ城中の兵士を土佐国へ送る。此の関之兵衛は敵方に志ある由聞ければ土佐にて自殺せしむ。其弟唯右衛門は元親の旗本に在しを大西白地にて打果す。さて木津の城落居の後、大和秀長は一宮城へ取懸り攻玉ふ。三好秀次は岩倉の城へ取かけ玉ふ。・・・(に続く)  (羽柴秀吉公、四国征伐記;巻之十四)

 

 

南海治乱記・・・天正十三(乙酉)三月、元親使者を以て秀吉公へ和を乞しかども、秀吉公四国を與る事を許し給ずして大軍を渡さるる。元親も兼て期したることなれば四ヶ国守拒の備をなす。先づ土佐国は険要の地也。西伊豫の内、喜多・宇和二郡の間二日路の程は幽谷険阻にして侘国の兵入難き地也。殊に小篠山とて三里の山越大切所にして一夫の守る所、千夫も過べからず。此所の固めとして幡多の中村に、吉良左京進居住す。東口阿波の南方、那珂海部二郡は険陒の地なり。牛岐に香曽我部親泰居城して其固めをなす。夫より海部宍喰野根甲の浦に至て一日路の程は大切所にて大軍と云ふとも憂となるに足らず。甲の浦より土佐の間に野々山とて十里の間人家なく一騎打の山越へ也。海部表へ敵打入る時は土州長岡より嗣子信親一万餘兵を率て甲の浦に出て親泰と力を合せ防戦すべしと計を定む。さて又阿州大西は土州より七里の山越也。大切所にて山坂に馴ざる者は一歩も行くべからず。元親、此の大西を出城として三ヶ国を保守す。是れ四国の中間に在て一国の如し。大西白地より預州の河の江へ五里、西讃岐財田へ六里、同州の西長尾へ九里、阿州の脇城へ十一里これある也。讃州植田の城は阿州の脇城より取つづひて三里の山越也。元親、計を設て長曽我部右兵衛尉に一千餘人を属て是を守らしめ、脇城守長曽我部新右衛門尉と力を合せ大西邑の羽翼たらしむ。西讃岐の香川氏は元親の次男を養子婿として遣はし香川五郎次郎親政と云ふ(五郎は香川の通名なり)。其次、西長尾の城に国吉甚左衛門一千餘人を以て守らしむ。元親は八千餘人を以て大西白地の城に居て其根を固ふす。然して讃州表の戦を待つ處に、讃州発向の軍将戦ずして阿波の国に赴く故に計行れずして止ぬ。阿州木津・岩倉・一宮は国の廣地にして少兵を用るに利あらず、敵を南方の険阻に引懸け勝負を決すべしと也。   (土州元親、四国を守るの記;巻之十四)

 

 

元親記・・・・・扨て讃州表の御発向は差止められ、阿州木津の城へ廻る。阿波分の地方には羽久地より程遠く、後巻等の手立なるべき様なし。如何様讃州植田城攻めの刻、この節所へ引請け一合戦を好み居られ候処に、兼ての評議相違して、無念がり給ひしなり。北伊豫分は毛利殿請取にて、先づ金子の城を攻落し、城主金子腹を切りたり。木津の城主東條関之兵衛、この城を責落され、関之兵衛は国許へ打入りたり。この関之兵衛、阿波地方の侍なり。武道つよき者なるに依て、久武内蔵助妹聟になし、家人同前にして城を預けらるる。然るに関之兵衛、東條紀伊守の甥なり。是に依て木津籠城の刻、紀伊守と云通し、大納言殿へ御目見致し、如何様阿波分相済み、本国へ御手遣候時は御忠節致すべしと、堅く手筈仕らせ申す由、元親聞付け給ひ、尤その義必定たるべきと思ふなり。木津落城の後、一の宮の城ヘ籠るべき所を、左もなく、又牛岐か海部の城にも足を留めず。寔にに大用の弓矢の落着をも見届けず。むざむざと国許ゑ帰り候つる事、爰にて思ひ当りたり。左様の二心ある者、以来とても頼敷からずとて、信親へ仰越され、浦戸にて腹を切らせらるるなり。扨て又、関之兵衛弟只右衛門は、元親卿の籏下にありしを羽久地にて果されしなり。・・・(に続く)   (太閤様へ降参の事;巻之中)

 

 

長元物語・・・・一、太閤秀吉公より長宗我部へ仰せ越さるる趣、阿波・土佐両国知行仕り、伊豫・讃岐さし上げ申すべきむね仰せ出さる。その時元親公御返事に、預州一ヶ国進上仕るべき旨仰せ付けらる。扨は陣立と仰せらる。大和美濃(秀長)どの、三好七郎(秀次)どの両大将にて、人数六万にて阿波へ渡り、毛利殿三万にて預州へ打渡らる。その時元親公阿波白地へ土佐より打出て陳(陣)あり。

        一、預州金子の城は、中国衆へ切落され、金子討死す。

        一、阿州木津の城、九日御責。扱にて城中の人数土佐へをくらるる事。

        一、阿州岩倉の城、九日責。扱にて城中の人数残らず土佐へをくらるる。此の如きの様子に付て、阿州・預州両国の小城共、数々明け退く事。

        一、阿州一の宮の城、十九日御責。爰にて御扱になりて、土佐一ヶ国元親公へ下され相済む事。

 

 

           天正13年5月、四国へ渡る兵船や兵站補給等を確認した後、5月中旬から順次、軍勢を四国に渡海させた。実に兵船数一千艘、総員数十万人に及ぶ大攻略部隊であった。秀吉は和泉岸和田城に陣取って総指揮を執り、葦毛や鴾毛の名馬に跨がり煌びやかな甲冑や旗指物に彩られた規律正しい軍勢を誇らしげに見送った。一方の元親は四国のヘソと呼ばれる白地を本拠地として阿波、讃岐、伊予3ヶ国に4万の軍勢を分散させたが、分散させたために総力戦を仕懸ける力はなく、また各国のしぶとい抵抗を力でねじ伏せてまだ2年にも満たない状況で、田野は荒れ、疲弊しきった国人達の志気もそう高くはなかったと推測される。兵将も谷忠兵衛の言葉を借りれば、犬の様な土佐駒に跨がり「鎧毛切れ腐りて麻糸を以て綴り集めて著し」(といったもので、信長以来の洗練された正規軍とは比ぶべくもない貧弱な脛黒の姿であった。謁見した忠兵衛に対する秀吉の恫喝からも3方面軍のほぼ同時上陸は十分予想できたので、水際作戦で殲滅させることは考えずに(まあ、これは到底無理)、「南海治乱記」に記されるように、最初から複雑な山間部に誘い込みながら徐々に力を削いでゆき、最後に土佐の国境か白地付近の野戦で雌雄を決する作戦を立てていたようだが、軍師黒田官兵衛を戴く歴戦錬磨の秀吉軍には全く通用せず、十年をかけて成し遂げた四国制覇もわずか一月足らずで一気に追込まれてゆくことになる。まさに「邯鄲の夢の如し」である。

           下に秀吉軍の渡海の様子を纏めた。ただ経路は一部、勝手に推測したところもあるので参考程度にして頂きたい。

 

          阿波方面軍 @羽柴秀長3万(畿内5ヶ国兵);堺淡路洲本淡路福良土佐泊

                  A羽柴秀次3万(丹波兵);明石→淡路岩屋→淡路洲本(陸路)で秀長軍と合流→淡路福良→土佐泊

          讃岐方面軍 B宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田孝高2万3千(備前美作兵);播磨、備前→(小豆島)→屋島浦

          伊予方面軍 C小早川元陰、吉川元春(中国8ヶ国兵)4万;三原、安芸忠海→今治、新居浜(新間)

 

           さて、撫養に上陸した阿波方面軍は、まず、真下飛騨守の拠る岡崎城を陥落させ、続いて東條関之兵衛実光の楯籠もる木津城に迫った。木津城は元々、篠原自遁の持城であったが土佐軍の侵攻で淡路に遁走し、四国征伐の頃は、元親の養女(久武親直の娘)を娶り早くから土佐に臣従した関之兵衛が守っていた(⇒)。関之兵衛は甲斐武田氏の出で、脇城の武田信顕と同様、三好長慶の時代に阿波に入って桑野城主となった。隣り合う新開道善とは領地や主君を巡って渡り合ったこともあったが(⇒)、一貫して元親に従ったため粛正されることもなく前線の木津城を任せられるに至ったのである。しかし、6万の大軍に囲まれ援軍も期待できないのではなす術もなく、八日目になって豊臣軍に従軍していた叔父?の東條紀伊守(行長)に説得されて開城したという(⇒)。(この紀伊守は桑野城に近い西方城(⇒)の同名の城主とは別人と云われている。) しかし敵方と勝手に交渉し怪しげな約束をしたことが”耳聡い”元親の聞きつける処となって裏切り者として後に土佐で切腹させられた。ほとんど抵抗もせず土佐に引き上げたのは香宗我部親泰(牛岐城)や吉田康俊(渭山城)も同じなのだが、外様ゆえに向後の“見せしめ”にされたのだろう。義父である元親寵臣の久武親直が付いていながら、どうしてそのような事態になったのか、何か他に秘められた理由があったのかもしれないが今は知る由もない。

           下のモノクロ航空写真は昭和22年の木津城付近の様子。尾根の突端で城の前後は低湿地に囲まれ、なかなかの要害の地であったことがわかる。しかし、楠木正成の昔ならいざ知らず、このような単独の小城一つで6万の大軍を引きつけるのは土台無理な話で、むしろ8日間もよくぞ持ちこたえたことの方を讃えたい。今は城のすぐ北側に高速道路の鳴門インターチェンジが完成し地形も大きく様変わりしている。

 

 

 

(衛星画像はYahoo地図を使用。拡大は画像をクリック!)

 

 

 

(航空写真は国土地理院(昭和22年)を使用。拡大は画像をクリック!)

 

 

 

 

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