滑石

   

 

 滑石は、結晶片岩や蛇紋岩に伴って産出する粘土鉱物で、水酸化マグネシウムと珪酸塩を主成分とする。一般に、板状、葉片状、繊維状を呈し、色調も不純物によって白色、灰色、淡緑色、褐色などさまざまである。学名はタルク (Talc) であるが、漂白、粉体にして商品化されたものや、他の成分を配合した“蝋石”なども広くタルクと呼んでいる。非常に柔らくスベスベした特有の感触があり、モース硬度1の示準鉱物となっている。

 写真は愛媛県宇摩郡土居町五良津山産の滑石で、母岩に付着するように繊維状、淡緑色で存在する。爪で容易に傷が付くほど柔らかく、蝋のような粘り気を感じる。関川下流では川擦れのため、摩耗して丸くなってしまっているものが多いが、住友林業の建物が残る上流の“河又”を過ぎ、紅簾片岩の露頭を見ながら渓谷が浅くなった周辺の有名なフィールドでは、このような風化を受けない標本をまだまだ採集することができるだろう。このあたりに“宇野鉱床”と呼ばれる滑石の岩脈が走っていることも原因しているかもしれない。ここの滑石は美しく大きな緑閃石を伴い、かって「月の瀬鉱山」として採掘されたこともあったという。当時の様子は、往年の鉱物界の重鎮で、白岩鉱山の放射性鉱物をはじめ、多彩な愛媛の鉱物を広く学会に紹介した、佐藤伝蔵博士の「伊予国五良津山の陽起石に就て」(地質学雑誌9(100)20−22 明治35年)が参考になるので少し長くなるが、下に転載させていただく。

 

「一.産地の状態 五良津山は、伊予国宇摩郡の西端関川村にあり、別子銅山の製錬所の所在地なる新居浜より国道に沿ひ、東に行くこと三里許にして新居、宇摩両郡の境界なる関の峠に至る。更に行くこと数町にして関川に会す。此の川は走向殆と東西にして八十度の角度を以て北に傾斜する結晶片岩地方の横谷にして、此の川に沿ひ、エクロヂアイト、角閃片岩、絹雲母石墨片岩等の美麗なる露出を見て、尚登ること一里計にして別子銅山山林課の出張所あり。此の関川渓谷従来岩石の露出良好ならざりし由なれども、彼の明治三十二年夏季の別子銅山の大災害以来、表面の土壌は洗ひ去られて種々の結晶片岩を美麗に露出すること、秩父荒川の其れにも優るとも決して劣らざるなり。此の銅山の出張所を過ぎ、更に渓谷を沿ひ上ること二十町許りにして谷の東岸斜坂に沿ふて一の鉱山の坑口様の者を発見すべし。是往古(今より二三代以前と称し精確の年代詳ならず)角閃石の一種玻璃様の光沢を愛でて採掘に従事したる道路なりと。伊予の陽起石は即ち此の坑内二三間の所にて採集するべきなり。但し採集するには蝋燭「マッチ」の用意は必要なり。・・・(以下 略)」

 

 これを見ると、明治35年にしてすでにエクロジャイトについての認識があるのには驚かされるし、明治32年8月28日、別子銅山を襲った大水害の爪痕が、まだ関川領域にも生々しく残っている様子も窺われる。土居町の「北野史」によれば、関川でも上北野の堤防が決壊し、下流の家屋三十余戸が押し流され、六十一人の水死者を出した。下北野の河原には数日後まで溺死者の死体がひっかかっていたという。別子銅山以外の被災状況は余り知られていないが、東予全体では、明治天皇が名代として侍従を見舞いに差し向けるほど深刻で甚大だったのである。国民がパニックを起こすほどの災害には、天皇陛下のお言葉ほど効果的な薬はないという特殊な国民性は、今回の東日本大震災の場合を考えても、今も昔も全く変わってはいないのである。

それはさて置き、滑石の坑口は川の右岸に何カ所か開口し、深さは5,6m以上、明かりがなくては採掘や採集ができないほど深い坑道だったようだ。当時はすでに廃坑同然であったらしく滑石採掘が行われている様子は書かれていない。注目すべきは、この坑道が、滑石ではなく緑閃石を目的に掘られた江戸時代にまで遡る古いものだということで、ここの緑閃石が観賞用として、当時の愛石家にすでに知られていた証拠でもある。「雲根志」で有名な木内石亭の石友にも、東予市(現 西条市)の実報寺の住職が記されていることからも、今と同じように、五良津の美しい石を愛でる愛石家がこのあたりに多く闊歩していたのではないだろうか?そうした人々から懇願されて、土地の杣人が“陽起石”を採取した跡がこれらの坑道であるとも考えられる。残念ながら、雲根志の陽起石の項に、そうした記述がないのが惜しまれてならない。

 

 下写真は、五良津産の滑石標本。いわゆる“蝋石”とも呼ばれるもので、紙の高価だった時代に、学童が石板と石筆をノート代わりに利用していたため国内の需要が多く、石筆用を目的に、月の瀬鉱山が稼行した時期もあったのだろう。おそらく大正から昭和初期にかけての製品と推測される。古い標本箱には、「愛媛縣赤石山 かんらん石(滑石の誤り)」と書かれ、滑石はカッターで直方体状にカットされている。大きさがまちまちなので、商品化されなかった端材を標本として取っておいたのかもしれない。不純物も少なく色も淡い灰白色で、なかなか上等な滑石のように思われる。なぜか北海道の学校に保存されていたものを入手した。戦前戦後の滑石の需要と採掘については、黒瀬鉱山のスメクタイトの項に書いておいたので、そちらを参考にしていただければ幸いである。小生も、幼かった昭和30年代に駄菓子屋でこのような滑石をよく購入して、道路やコンクリート塀に落書きをして遊んだ経験がある。すでに国産のものではなかったとは思うが、あのスベスベしてヒンヤリとした手触りは、独特の印象として今も鮮明に指先が憶えている。現在、五良津の採掘現場は完全なブッシュとなり、そこに至る道もないので坑口を見いだすのは困難となっているが、周囲の河原を丹念に探せば、緑閃石を交えたきれいな滑石をまだまだ採集することは可能かもしれない。五良津を代表する鉱物として、ひとつは持っておきたい一品と言えるだろう。

 

     

 

 滑石は、紙を白くし文字を書きやすくする作用があるので、一般の用紙にも多量に練り込められている。束ねた本など、紙が意外に重いのは、この滑石が入っているからである。その他、化粧品や薬品のパウダーとして昔から汎用されている。石だけに紫外線を遮る効果も強く、日焼け止めクリームには欠かせない成分ともなっている。反面、最近はタルクアレルギーも増加傾向にあり、化粧品かぶれやアレルギー性皮膚炎の原因物質として問題視されている。小生も医療用手袋のラテックスやタルクには過敏症があり、一度、発症してしまうと1〜2週間ほど全身の耐えがたい痒みや発疹に悩ませられるので、パウダーフリーのプラスチック手袋を使うようにしているが、昔はそんな便利な製品もなく、わかっていながらタルク付ゴム手袋を使用せざるを得ずに随分と辛い思いをしたものである。タルクと聞いて一番に思い出すのが鉱物としての特記事項より、そんな若き日のアレルギー地獄の日々であるとは、我ながらちょっと悲しい・・