新居浜精錬所の遠景

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新居浜町西原から望んだ新居浜精錬所絵葉書である。煙突から棚引く煙が明治期の鉱業の隆盛を偲ばせる。

当時の西原は野原に墓場が点在するたいそう寂しい処で、零細な漁業を生業とする一寒村に過ぎなかった。

明治17年、そのすぐ西側の川向かいに近代的な精錬所が出現したのだから人々もさぞ驚いたことだろう。

金子川の河口に西洋式精錬所を作るという計画は、かのルイ ラロックによってすでに練られていたのだが

計画から早くも数年で一応の完成を見るに至った。当初はボストン精錬工場と同型のピルツ炉を採用したが

塩基性の鉱石と珪酸質の煉瓦が反応して炉の侵蝕著しく、わずか4日にして溶解不能に陥ったと伝えられる。

その後、フランス帰りの塩野門之助が羽口や送風機の改良を加え、煉瓦式反射炉による精錬が本格稼働した。

明治26年には念願の最新式水套炉も導入され、銘柄のKS銅を中心に年間400万斤の産銅量を突破した。

それまでは山根の湿式収銅所と二本立の生産ラインであったが、煙害や効率の劣る山根を28年に断然廃止し

別子大水害以降は、37年に四阪移転を敢行するまで、別子銅山全ての焼鉱と精錬を新居浜で行うに至った。

下写真は、「住友事業案内」所載の惣開精錬所(左)と、その内部(右)。円錐型の゚ポットが印象的である。

2011年に発行された「別子鉱山写真帖」にも撮影されており、「鉱滓廃棄壺」という名で紹介されている。

 

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                          (左は「住友事業案内 明治32年版」、右は「同 明治35年版」より転載。)

 

新居浜のランドマークであった大煙突は精錬所の象徴で、明治33年に建設された。その由来を以下に述べよう。

精錬所が計画された明治15年、周辺住民は早くも煙害の発生を確信して許可しないように県知事に陳情した。

しかし、知事はそれを無視して建設許可を出した。住友と農民の闘いはこの時から開始されたと見て良いだろう。

元来、山上で行っていた焼窯と同様のストール焙焼を平地でやろうと言うのだから、その結果は明らかであった。

おまけに明治20年を境に産銅量は鰻登りであり、早くも24年には江口や新田の農作物に被害が現れだした。

産銅量に反比例して米の収穫量は悪化の一途を辿り、金子村では10年で半減してしまった。(新居浜産業経済史)

農作物の他に、瓦や漆喰が赤変し雨水で飼っていた金魚が死滅し、墓石の苔がなくなったなど細かに報告している。

明治26年から28年にかけ農民はしばしば分店に押し掛けるも、住友はなかなか煙害を認めようとはしなかった。

鉱業の発展は国策であり、おまけに日清戦捷に沸く国情の下では、少々の事は我慢しろというのがお上の意向である。

昔なら小作が一揆を起こす相手は代官か地主というのが定番だが、この問題は地主も一緒になっているのが厄介である。

そんな地主達を封じ込めるために取った手段は煙害田畑の買い上げで、一時の金に目の眩んだ地主はやがて小作に零落し

住友は唯一の大地主に成長すると共に、古来からの農村構造は破壊され、身売りや一家離散する農家も少なくなかった。

それゆえ農民も必死なのである。内心では煙害は事実だと認める住友は、流石に“これはマズい”と判断せざるを得ず

宰平に替わった伊庭貞剛は、足尾に再就職していた塩野を急いで呼び戻し、精錬所の四阪島移転を決断したのである。

これに拍車をかけたのが明治32年の別子大水害で、山上の精錬を新居浜に収斂するのはもはや望むべくもなかったが

住友は一応、農商務大臣に新居浜移転の認可を申請してみた。しかし、すでに農民側の陳情があったことが効を奏してか

「高弐百尺以上ノ煙突ヲ明治三十三年三月三十一日限リニ新築シ烟ハ悉ク之ニ因集シ、又煤煙ヲ収取スル装置ヲナスヘシ」

「四阪島製錬処ハ明治三十五年十二月三十一日ヲ期シ竣工スヘシ。」という厳しい条件を付けて辛うじて認可された。

住友は最新の“生鉱吹き”導入に時間を要するとして、なおも2年間の四阪島移転の猶予を願い出て食い下がったが

田中正造の直訴事件が大きな社会問題となり同様の鉱毒事件が別子に波及するのを恐れた政府は、これを認めなかった。

その証となるべき「高弐百尺以上ノ煙突」は、期限通り明治33年に完成し、林立する煙路を纏めて集合煙突となった。

明治37年、四阪島製錬所の溶鉱炉に火が点じられ、それとともに近代化の象徴でもある新居浜精錬所の時代は終わった。

農民は勝利に酔い大団円だと咆哮したが、それが永い「終りの始まり」であることに気づく者は誰もいなかったのである。

 

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                              (煙害シミュレーションは「四阪島」(講談社 昭和46年)より転載。)

 

 

上写真は、明治から大正期にかけての新居浜精錬所大煙突。煙路長63m余は、当時は際だった高さを誇っていた。

昭和まで“浜”の象徴として聳え立っていたが、太平洋戦争中、米軍の標的になることを恐れて撤去されたという。

右図は、木本正次著「四阪島」の煙害シミュレーション。昭和46年頃のコンピュータを利用した煙害解析は画期的!

これを見ると煙害は決して惣開を中心とした同心円状ではなく、海風の方向で長楕円形状に偏在しているのがわかる。

煙突を高くすればするほどに、楕円形が遠く広がるだけで煙害の根本的な解決にはならないのが一目瞭然である。

四阪島移転後も、この向きが東予に変わっただけで最終的な解決はベテルゼン式脱硫法を待たなければならなかった。

農民の最大の仇敵たる亜硫酸ガスが味方に生れ変わるという破天荒な結末に双方とも恩讐を越えて驚嘆したのである。

蛇足だが、2011年の福島原発事故で、当初、同心円状の避難区域を設定したのが如何に無意味かが思いやられる。

SPEEDIのデータは、まさにこれと同じ長楕円状であり、政府の危機管理が如何に過去に学んでいないかを痛感する。

さらに汚染された土地を全部、国が買い上げるそうだが、土地を取られた人々の行く末は推して知るべし!であろう。

「温故知新」の古諺にあるように、過去を学ばなければ未来のあろう筈もなく、ただ同じ過ちを繰り返すだけである。

過ちと真摯に向き合い地道に解決の努力をしてこその発展なのだが、ただ隠すことしかしない今の日本に明日はない!

 

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                       (左は「住友共同電力のあゆみ」(住友共同電力)、右は「未来への鉱脈」(新居浜市)より転載。)

 

 

さて、お口直しは大煙突から見下ろす鳥瞰二景。左は砂州に続く御代島方面、右は東に西原、新居浜村を俯瞰している。

写真には煙突から排出される白煙も写っている。亜硫酸ガスを多く含んでいたから、まさに命懸けの激写というべきか!

「未来の鉱脈」には“煙突から写す”と明記されているが、ある人は高度からみてこれは航空写真だと主張している。

航空写真だとすると、日本で有人機が初めて飛んだのが明治43年だから、「鉱脈」の30年代撮影というのは誤りとなる。

「あゆみ」には、“明治10年代”とあり、これは煙突も飛行機もない時代だから論外なのだが、さて貴兄のご意見は如何?

 

 

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