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井手さんの文章は文学の香り…。

会長あいさつ

 S47年卒 井手 浩一

  歴史は、すべての糸があらゆる他の糸と何かの意味で結びついているつぎ目のない織物に似ている。ちょっと触れただけで、この繊細に織られた網目をうっかり破ってしまうかもしれないという怖れがあるからこそ、真の歴史家は仕事にかかろうとする際にいたく心をなやますのである。(『クリオの苑に立って』ハーバート・ノーマン

 OB会の組織が出来て42年。それだけの年月で《歴史》を語ろうとするのはおこがましいと思う。ただ、当然のことながら、吹奏楽部の卒業生の集団が生成されてその1人1人が動き始めるには、母校で器楽の歴史が始まらないと不可能であったし、途中で途切れることも許されなかった。つまり42に18を加えて60年、ほぼ人間の還暦に等しいが、最低でもこれだけの時間が経過することが必要だった。仮にOB会に終わりがあるとしても、その構成員が1人でも生き残っている限り、組織としての記憶は継続する。あの年の演奏会であんなシーンがあったと語り継がれるなら、60年に40年を加えることも可能になる。
 同じ歴史家のメートランドの言葉を借りれば、機織機がガチャガチャ動き始めて数十年が経過して、ようやく何メートルかに織り上がった《つぎ目のない織物》がOB会の歴史。それに対して《誰の目にも模様を大きく見せていた幾本かのほつれ糸の一筋二筋》が個々の会員である。歴史は1つの大きな流れであるから、どこか一部分を切り取ることには意味がない。それでもなお「あの時の演奏は」と振り返りたい誘惑に駆られたりもする。それはほつれ糸の一筋としての感傷であって、会の流れとは関係がない。織物の全体は無数の糸の絡まりで成り立っているのだから、不用意に一部を断ち切れば、出来上がった模様を損なってしまう結果になる。
 さあ、いつまでこの流れの中に身を委ねられるだろう。古参の会員は多少なりともそんな怖れを持って参加していると思う。ただ一度織り上がった布をバラバラに裁ち切って元へ戻すことも既に不可能であって、自分がこの歴史の中で幾らかの役割を果たして来たことは無意味ではないのかもしれない。








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