去る平成20年10月23日、平成5年卒白石裕子さんのご葬儀が松山市内で行われました。 以下は追悼の意をこめて寄せられた文章です。 ------------------------------------------------------------------------------------ その日、いつもと同じように音萌の会報ホームページを開いた私は、え、まさか、と目を疑いました。もう一度見直しましたが、やはりそこには悲しい訃報が記されていて、どうして?とそのまま震える手で井手さんに電話をしました。 白石裕子さんは、私の一学年下の後輩です。学年もパートも、出身中学や帰る方向も違います。私よりも親しいおつきあいをされている方や、もっとたくさんの彼女らしいエピソードをお持ちの方もいらっしゃると思います。また、どんな気持ちで綴ればいいのかと、この原稿をお引き受けすることを迷いましたが、ほんの少しでも私の彼女に対する思いが伝わればとペンをとることにしました。 白石さんが入学された平成2年は、当時の3年生、そして私のいた2年生はそれぞれ途中で退部する部員が多く、4月当初で合わせて20名足らずという部員数でした。少人数の良さもありましたが、挑戦できる音楽の幅を広げるためにはと、必死で勧誘活動をした結果、30名あまりの1年生が入部してきてくれました。それぞれが個性豊かなにぎやかな学年で、部が一気に活気づいた嬉しい春でした。 その中で白石さんは、いつも穏やかな笑顔が印象的で、控え目ながらも芯の通った方でした。皆が忘れがちな昼の当番の仕事などもいつも黙々とこなされていたことを覚えています。しばらく空白だった弦バスの担当で、華麗な弓さばきで弦の豊かな響きを加えてくれました。彼女が1年生の時のアンサンブルコンテストでは、パーカッション担当として打楽器アンサンブルに加わり、まるで元からその奏者のようにさらりと鍵盤楽器などを演奏され、たしか、県大会で金賞という見事な結果になったと記憶しています。 彼女が大阪大学に進学された時、私は神戸で学生生活を送っていました。平成5年卒の後輩達はわりとたくさん関西方面に進学してきましたので、京都の誰かの下宿に集まっての鍋パーティに私も呼んでもらい、その場に白石さんもいて、一緒に楽しいひとときを過ごしました。また、特に印象深く覚えているのは、大学3年生の時に、私が母を病気で亡くした際のこと。彼女から私を気遣う手紙をいただき、母の死で憔悴していた私は、その温かい内容にずいぶんと励まされ、彼女の気持ちをとてもありがたく思ったものでした。 その後、ある就職の面接会場で白石さんと一緒になったことがあり(ぼんやりしていた私は就職が1年遅れました)、そのあとごはんを食べにいったのが、もしかしたら、二人でゆっくりと話ができた最後だったのではないかと思います。 今年の年賀状の「今春には異動の予定で、慌ただしい1年になりそうです」との文面を、お仕事充実されているんだな、と思って拝見し、「また音萌でお会いできれば嬉しいです」との締めくくりに、私も全く同じことを考え、そういえばもう4,5年は会えていないなあ(夏に帰省できないことが続いていました)、と次に会えるのを楽しみにしていました。 訃報を聞いて以来、何度も何度も白石さんの笑顔が浮かんできます。まだまだ人生これからという時のこ と、ご本人はどんなにか無念だったろうと思います。こうして振り返る中で、ああ、私は白石さんの温かくて誠実な人柄にひかれ、常には会えなくてもずっとつながっていたいと思っていたんだ、ということを、改めて思い知らされました。そんな彼女がこの世にいないということがどうしても信じられず、でも、もう二度とお会いできないのかと思うと、本当に残念でつらく、悲しくてなりません。 白石裕子さん、かなうことならもう一度あなたに会いたいです。
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