輝安鉱1

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 小生の持つ輝安鉱の中で、もっとも美しいと自負する一品。ヨーロッパからの里帰り品だけあって鋼灰色の輝きも眩しく、そのうちの何本かは条線や先端構造も保たれている。これ以上、何もコメントすることもない。「輝安鉱には赤色が良く似合う」とは、太宰治の言葉でもないのだが、愛媛県内で保存されている輝安鉱は、緋色の布に包まれて桐箱に収められていることが多いようだ。小生もその真似をして、曾祖母の古い箪笥の中にあった赤い布片(まさか腰巻か!?)を敷き桐箱に収めてみたのだが、渋い鋼灰色に赤の色合いがよく映えて標本の美しさがひときわ鮮やかに強調されている。稚拙な写真で、その効果があまり表現できていないのが残念という他ない。

 

 市之川鉱山については、小生のHP(鉱物鉱山山の会)ですでに説明しているのでここでは省略するが、このような大きな標本が採掘されたのは、ダイナマイトが導入される昭和初期以前のものが多く、世界の博物館に保存されている立派な標本は、明治10年代に藤田組(後の同和鉱業)がパリ万国博覧会に出品してからと伝えられる。特に横銿(ヨコヒ)の大鋪坑、鰻坑、旭坑が抜けあった「三角組の大ノ」と呼ばれる巨大な標本がことさらに有名である。「資料集 市之川鉱山」には、三角組は「大鋪坑の“ヨザ”と呼ばれる場所の奥」と説明されている。下図にその大体の位置を示しておいた。公民館から望むと、すぐ東側に聳える山の真下あたりである。以前は、千荷坑前の鉄橋を渡って斜面の快適な横懸け道を辿ると大鋪坑前を横切って鰻坑まで行けたのだが、平成16年の大水害以降、今はどのようになっているのであろうか?大鋪坑あたりでは輝安鉱の母岩付き標本をいとも簡単に採集することができ、汁谷坑や岩屋坑など江戸時代からの旧坑が道端に並んで、それだけでも貴重な産業遺跡だっただけに、水害でほとんど崩壊してしまったのではないかと心配している。その上、水害後しばらくは赤茶けた坑内水(フェリハイドライト;Ferrihydrite)が各所で流れ出し、水都西条市の名を汚す深刻な水質汚染になったことは今も記憶に新しい。一方、鉱物愛好家にとっては山腹が崩壊したおかげで、鉱脈の一部が谷筋に崩れ出て、巨大な輝安鉱の塊やノ玉が採集できたのは百年に一度有るかないかのラッキーチャンスでもあった。堀 秀道先生も来山され大きな鉱脈状の塊状輝安鉱を担いで帰られたのは、小生たちにとっても嬉しい思い出である。しかし、その後の復旧工事と草木の繁茂で、今は再び採集困難となっているそうだ。「市之川地区の歴史」によると、大ノは、鉱脈の“ガマ”と呼ばれる空洞の中に、ほぼ横倒しの形で入っていたと云われ、手に取った状態ではまだ柔らかく(ダイコンを握ったような感覚と表現されている)、空気に触れると次第に硬くなっていったそうだ。ガマの中は“ヌタ”と呼ばれる青黒い泥が詰まっていて、こうしたヌタの中の結晶は光沢も良く非常に美しかった。逆に輝安鉱のない“スガマ”も時々あったという。坑夫さんは、ガマの中で結晶は今でも成長し続けているといい、あのあたりの鉱脈も未だ採り尽くした訳ではなく、山のどこかに大ノは今も静かに眠っているとのことなので、最新の土木技術を利用して、どうにかして掘り出せないものかと思案している小生でもある。本物の“輝安鉱入りガマ”が地元で展示できれば、おそらく市之川鉱山の世界遺産登録も夢ではないと考えているのだが

 

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 とはいうものの、市之川に関する地元の関心は相変わらず薄く、インターネットで検索しても個人的な紹介文や訪問記程度しかヒットしない。愛媛県総合科学博物館の展示といったところで、特別展以外は秘蔵の輝安鉱標本をいつも拝見できる訳でもなくインパクトが今ひとつ希薄である。先年、愛媛県立博物館を統合してから少しは展示内容も変わったのであろうか?西条市立郷土博物館は、田中大祐翁が収集し世界重要鉱物標本に登録された大きな輝安鉱をはじめ鉱山写真や工具など、狭いコーナーを利用して精一杯展示努力をされているのだが、ここ十年以上、展示内容にあまり変化はないようだ。現地の市之川公民館にも当時の精錬用坩堝や精製アンチモンをはじめ、坑夫さんの家から寄贈された立派な輝安鉱標本が2本ほど大切に保存されているものの、公民館が不定休なので、知らずに訪れた遠方からの来訪者をしばしばガッカリさせている。この三つを統合すれば、それなりに立派な市之川鉱山記念館ができそうにも思われるのだが、そうした動きも働きかけもトンと聞かないのは残念としか言い様がない。

一方、新居浜市や西条市には有名な歴史研究会がある。ここに時折、市之川鉱山に関する記事が投稿される。たとえば最近のものを列挙すれば、「市之川鉱山」(伊藤 勇 西条史談第38号 平成8年)、「富本銭と市之川鉱山」(塩見 淳 西条史談第47号 平成11年)、「市之川鉱山」(藤田二郎 新居浜史談 第365373号 平成18〜平成20年)など興味深い内容で、毎月、市内の主な書店に並べられているのもさすが鉱山のお膝元というべきである。伊藤 勇先生は、かの「資料集 市之川鉱山」をはじめ多くの著書を出版し、鉱山の保存にも力を入れられている市之川公民館長さんである。藤田二郎氏は、坑道のひとつである「藤田舎」を所有されていた共同鉱山出資者の子孫の方である。このような地道な活動がいつか認められ、鉱山が再評価される原動力となることを祈るばかりである。

 

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 海外の論文も注目すべきものが多々認められる。ここでは、1988年に発表されたピーター バンクロフト (Peter Bancroft)氏の famous mineral localities; THE ICHINOKAWA MINE Japan(The Mineralogical Record, volume 19, July-August; 229-238,1988) を紹介しよう。バンクロフト氏は、1986年に西条市を訪問され、その現状を世界に発信された。彼の案内を務められたのが伊藤 勇先生である。上写真の千荷坑前で写っておられるのがご本人である。そのときの様子を先生ご自身が「愛媛石の会会誌」(第6号 1996年)の中で書かれているのでここに一部を転載させていただく。「一番印象に残っているのは、ピーターバンクロフトさんだ。私たちの間では、ピーターパンさんと言っていたが、紹介文を見たときには驚いた。サンタバーバラ自然史博物館主事、カリフォルニア州教育長、ワシントンコロンビア市教育顧問、ボリビア教育指導員、文学士、理学修士、教育学博士、著作家、収集家、写真家、趣味―探検、鉱物および宝石収集、釣り、テニス。どんな人が現れるのか内心おそれをなしていたが、気さくなやさしそうな人だったので、やれやれと胸をなでおろした。感心したのは、氏の行動力だ。坑内に入ってみたいとのこと。坑道は古くなって大半が崩れており、危険である旨伝えてもらったが、是非にと言うことで近くの坑に案内した。入り口は大きな岩でふさがれ、やっと這いこめる程度。懐中電灯を手に、カメラを肩に氏の大きな体がすっと消えたのは見事。止むなく後を這い、苦労の末、這い込む。中は広く、かなり古い坑なのか、天井から鍾乳石の孫みたいのがぶら下がっており、氏の興味を引いたようだ。幸い少し行ったところで大きく崩れていて前進不能。」・・・特に小生が面白いと思ったのは、バンクロフト氏が坑道の名前を英語に直訳していることだ。たとえば、soup valley adit(汁谷坑)、great adit(大鋪坑)、golden water adit(金水坑)、banner adit(幟立坑)、marshy rice fields adit(沼田坑)、back side adit(所后坑)thousands of loads adit(千荷坑)などなど。地名をここまで直訳する必要もないとも思うのだが・・・外人にとっては、却って意味がわかりにくく感じるのでは?とちょっと心配・・・。

 一方、バンクロフト氏は論文の中で、市之川鉱山の歴史は言うに及ばず、地質、古写真、結晶形、田中大祐翁に至るまで事細かに説明し、最後に感想を次のように述べている。「19551965年の市之川鉱床の詳細な研究の結果、もはや目ぼしい鉱脈は存在しないことが明らかになった。1200年以上にわたる鉱山の開発によって鉱脈は広く掘り尽くされてしまったのだ。鉱山設備は移動され、付近の精錬プラントもすべて取り除かれてしまった。そこにはもう鉱山再生の可能性はない。美しい結晶標本は大きな鉱脈の中に見出されたが、そうした富鉱体もすでに存在しない。従って現在の坑道の中から結晶を採集しようという試みは空しいだけである。」厳しい意見ながら鉱山の現状をよく把握できている。これも実際に鉱山を訪問し、坑道にまで入ったからこそ言える結論と言うべきであろう。今から20年ほども前に西条市は、こうした外人に対する英語の案内パンフレットまで作成したが、海外からの来訪者はここ数年、特に減少しているという。それも取りも直さず、バンクロフト氏のような論文で鉱山の最新情報が紹介され、地元の西条市民より詳しく市之川鉱山の現状を把握していることも原因しているかもしれない。

 

 仮に、はるばる来ていただいても、鉱山跡がこのような惨状では快く案内するのも躊躇される。大水害で千荷坑口の半分が土砂で埋まったが、現在も取り除かれることもなくそのまま放置されている。坑道前にかかっていた鉄橋も流されたため、水量の多いときは対岸に渡ることさえできない。予約しておかないと、平日の公民館がほとんど無人なのも大きなハンディである。おまけに鉱山跡地が今も企業の所有地であることも致命的な障害となっている。“世界一の市之川鉱山”が、こんなことで本当にいいのだろうか?このまま朽ち果ててしまってそれでいいのだろうか?・・・西条史談の中で、伊藤先生は「願わくば、祖先や哀歓を共にし、運命を共有したこの鉱山が、私たちの宝であり、同時に西条市の宝日本の宝でもあるこの市之川鉱山が、自然と歴史、文化を兼ね備えた憩いの場として蘇り、再び光があたらんことを。」と述べ、「市之川鉱山跡第一次開発利用構想図」(平成8年)を掲げている。小生もこの図を再度掲げて本稿を終わりにしたいと思う。世界の市之川鉱山があるべき姿で大切に保存されることを心から願いつつ・・・

 

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