【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】

 

太平記・・・・今年ノ春、筑紫ノ探題ニテ将軍ヨリ置レタリケル一色左京大夫直氏、舎弟修理大夫範光ハ、菊池肥前守武光ニ打負テ京都ヘ上ラレレバ、少弐・大友・嶋津・松浦・阿蘇・草野ニ至ルマデ、皆宮方ニ順ヒ靡キ、筑紫九国ノ内ニハ、只畠山治部大輔ガ日向ノ六笠ノ城ニ籠タル許ゾ、将軍方トテハ残リケル。是ヲ無沙汰ニテ閣(さしお)カバ、今将軍ノ逝去ニ力ヲ得テ、菊池如何様都ヘ責上リヌト覚ル。是天下ノ一大事也。急デ打手ノ大将ヲ下サデハ叶マジトテ、故細川陸奥守顕氏子息、式部大夫繁氏ヲ伊予守ニナシテ、九国ノ大将ニゾ下サレケル。

         此人、先讃岐国ニ下リ、兵船ヲソロヘ軍勢ヲ集ル程ニ、延文四年六月二日俄ニ病付テ物狂ニ成タリケルガ、自ラ口走テ、「我、崇徳院ノ御領ヲ落シテ、軍勢ノ兵粮料所ニ充行シニ依テ重病ヲ受タリ。天ノ譴(せめ)八万四千ノ毛孔ニ入テ五臓六腑ニ余ル間、冷シキ風ニ向ヘ共盛ナル炎ノ如ク、ヒヤゝカナル水ヲ飲共沸返ル湯ノ如シ。アラアツヤ堪難キヤ、是助テクレヨ。」ト悲ミ叫テ、悶絶僻(辟)地シケレバ、医師陰陽師ノ看病ノ者共近付ントスルニ、当リ四五間ノ中ハ猛火ノ盛ニ燃タル様ニ熱シテ、更ニ近付人モ無リケリ。

         病付テ七日ニ当リケル卯ノ刻ニ黄ナル旗一流差テ、混(ひ)タ甲ノ兵千騎許、三方ヨリ同時ニ時ノ声ヲ揚テ押寄タリ。誰トハ知ズ敵寄タリト心得テ、此間馳集タル兵共五百余人、大庭ニ走出テ散々ニ射ル。箭種尽ヌレバ打物ニ成テ、追ツ返ツ半時許ゾ戦タル。搦手ヨリ敵カト覚テ、紅ノ母衣掛タル兵十余騎、大将細川伊予守ガ頸ト家人行吉掃部助ガ頸トヲ取テ鋒(きっさき)ニ貫キ、「悪(にく)シト思フ者ヲバ皆打取タルゾ。是看ヨヤ兵共。」トテ、二ノ頸ヲ差上タレバ、大手ノ敵七百余騎、勝時ヲ三声ドット作テ帰ルヲ見レバ、此寄手天ニ上リ雲ニ乗ジテ、白峰ノ方ヘゾ飛去ケル。変化ノ兵帰去レバ、是ヲ防ツル者共、討レヌト見ヘツル人モ死ズ、手負ト見ツルモ恙ナシ。コハイカナル不思議ゾト、互ニ語リ互ニ問テ、暫クアレバ、伊予守モ行吉モ同時ニ墓ナク成ニケリ。誠ニ濁悪ノ末世ト云ヒナガラ、不思議ナル事共ナリ。     (崇徳院御事;巻第三十三)

 

延文四年記・・六月六日丁卯、細川兵(式カ)部大輔他界也。病席ニ沈ムコト十ヶ日、其間、種々ノ奇瑞有レドモ、注記スルニ遑(いとま)ナクシテ了ンヌ。(原文は漢文;「続群書類従」に所収)

 

図1.崇徳院の神兵に討ち取られる細川繁氏。「神領を掠めとる繁氏、罰を蒙ふる」とある。

                           (「金毘羅参詣名所図会」(暁鐘成著 草薙金四郎校訂 歴史図書社 昭和22年)より転載;拡大は画像をクリック!)

 

         正平の一統(⇒)の破綻で南朝軍に都を攻撃され、辛くも近江に落ち延びて窮地に追い込まれた足利義詮も、鎌倉における直義の急死と関東に展開する新田軍敗走の報告を受けてようやく軍勢を立て直し、男山八幡宮まで還御していた後村上天皇に対して反撃を開始する(図2.)。3月には早くも都を奪還し、南進して男山を包囲する態勢に移った。5月には義詮軍の大将に細川顕氏が任命され、同族の若き清氏や父頼春の弔い合戦として意気軒昂な頼之もその配下に置くこととなった(頼之については推測ではあるが・・)。

         一方、優勢な援軍の得られない南朝軍は楠木正儀や和田正忠らの奮戦も空しく兵粮が尽きて天皇も辛うじて賀名生に退去せざるを得ない状況に追い込まれ、建武新政以来の重臣である四条骼曹熨゙去中に討死して果てた(八幡の戦い⇒)。男山陥落寸前の5月4日には一矢を報いるべく、楠木正儀や藤原康長(法性寺左兵衛督)が精鋭800人を選って細川顕氏、清氏軍に夜討をかけ大混乱を起こさせたのは快挙ではあったが、他の土岐、佐々木、山名、赤松などの陣はしっかりと鹿垣をして夜討に備えていたので南朝軍の劣勢を挽回するには至らなかった。このあたりも顕氏の鷹揚さと戰さ下手を象徴しているようで興味深い。

         さて、この夜討で顕氏と清氏が負傷したと洞院公賢の「園太暦」には記されている。「今日聞ク、諸方攻寄ルノ間、(男山)山上ニ行幸サレ、諸人皆以テ山上ニ参集ス。細川奥州(顕氏)、与州元氏(清氏)以下、山上ノ後ヨリ廻リテ経墓(「太平記」には経怐jト称スルノ所ニ陣ヲ取ルノ処、御方ヨリ夜討シ、子刻ニ発向シテ彼ノ役所ニ向フ。疵ヲ被ムル者数知レズ、仍チ顕氏已下迫ラレ切レ、元氏洞ニ在テ夕ヲ下サレ之在リ、仰天ノ上、其路難所ノ間、大渡辺マデ引退云々、顕氏元氏疵ヲ被ムルノ由風聞ス。後聞、顕氏殊無キ事カ、馬并武具ハ大略払底取ラレケリ云々(文和元年4月26日の項)」(原文は漢文、「太平記三」(日本古典文学大系 岩波書店 昭和32年)より引用)。さらに29日には「或云、夜討事例浮説也、明日合戦ニテ雌雄ヲ決ベク云々」とあるので情報が錯綜していたことがわかる。ところが、7月5日に「伝聞、陸奥守顕氏、昨日出家、今日未刻卒ス云々」とあるので、4月には事なきようにも見えたが、結局この時の疵が死に至らしめたのかもしれない。続けて「(顕氏は)今度ノ八幡合戦ノ惣大将也。(男山)山下ニ於テ極楽寺、祓殿以下寺社数箇所悉ク焼払ヒ、灰燼ト為シタル冥罰ノ由、世、之ヲ称ス。」とあるので顕氏も世間受けはあまりよくなかったらしい。楠木正行との戦に敗れて河内・和泉両国の守護を解任され、観応の擾乱では直義側に付いて追討を受けたかと思えばいつの間にか尊氏側に帰参、細川頼春が討死してまだ間がないのに義詮の総大将に任命されるなど、世を渡り歩く立ち回りの良さと些か節操のなさがその原因と思われ、小説ではあるが顕氏をあまりよく思わない細川3兄弟(和氏・頼春・師氏)子息の長兄格にあたる清氏に毒殺されたと推測する向きもある(⇒)。しかし、有利になったとはいえまだまだ細川家が一丸となって戦わなければならない混乱と流動の時期だけに、清氏や頼之にとって従叔父の急死は頼春と同じくらい痛恨の出来事であったに違いない。

 

図2.八幡合戦の絵図。名和長生(長年の弟)の背負う内侍所(神鏡)に義詮軍が矢を射かけている場面。

 不思議に木櫃には矢が立たなかったと伝えられる。遠方左には南帝(後村上天皇)と法性寺左兵衛督(藤原康長)。

                                 (「絵本太平記」(国立図書館デジタルコレクション)より転載、一部合成;拡大は画像をクリック!)

 

         顕氏亡き後、嫡子とされる繁氏が家督を継ぎ讃岐・土佐両国の守護となった。「薩藩旧記」には顕氏死後3年目の文和4年(1355年)に「酒匂資光ヲ卒イテ土佐ニ入リ南軍ト戦」ったことが記録されている(⇒。新田義貞が滅びた延元3/暦応元年(1338年)に満良親王が土佐に入りその後、南軍は力を失ったとはいえ、まだまだ残党が山岳部を中心に暗躍していたので当国守護として現地で軍を直接指揮していたのであろう。また同じ頃、東讃(香川県さぬき市)の長尾八幡宮(宇佐神社)を再営し、後に寒川常隣の居城となる池内城(⇒)を築城したことが「全讃史」や「香川県神社誌 上巻」(同神職編 昭和13年)に見えている。年代は少し遡るが、建武4年/延元2年(1337年)に顕氏が財田で南軍と戦い(⇒)、東讃でも造田庄是弘名で造田氏が年貢を抑留するなど抵抗が続いており(⇒)、それから20年近く経っても南軍を完全には排除することができなかったのかもしれない。当時の守護所は顕氏の頃と同じ宇多津にあったと思われるが、鎌田共済会主事の岡田唯吉は「此地(長尾庄)ニ入城シテ阿讃交通路ヲ扼シ、以テ敵軍(南軍)ノ讃阿連絡路ヲ断チ、自ラハ北軍ノ阿讃通路ヲ緊密ニシヤウト策シ、尚ホ長尾八幡社ニ祈祷シ、或ハ社領地灌漑用水池ヲモ築イタモノデアラウ。」(「第13回 郷土博物館陳列品解説」(鎌田共済会 昭和11年)と述べこの地の枢要性について強調している。確かに同じ公頼系同族の本拠地である阿波秋月との連携で山岳部の南軍を挟撃するには清水越や相栗越を控えた長尾の地は要衝で、後年、強力な国人である寒川氏を容れたというのも強ち間違いではないのだろう。

         他の同族との関係もおおむね良好であったようで、webの「南北朝列伝」(⇒;細川清氏の項目)には、正平10年/文和4年(1355年)6月4日には同族の細川清氏・頼之らと共に三宝院賢俊のもとを訪れ、風呂を使って終日懇談している(賢俊僧正日記)」とある。非常に興味深い記事なので、原典を当たって見たところ、「(六月)四日、細川相州(清氏)、同右馬助(頼之)、同刑部大輔等来臨、入風呂、終日之会也。」(「三宝院賢俊僧正日記」(橋本初子;研究紀要13号 醍醐寺文化財研究所 1993)とあった。繁氏は式部少丞(後に式部大輔)で刑部大輔には補任されていないので、些か疑問符が付くのだが、刑部大輔の頼春はすでに他界しており、細川一族で代々、刑部大輔を世襲するのは頼之の弟の頼有(和泉上守護家)の家系で嫡子の頼長からであるが、この時はまだ生まれてもいない。相模守は従五位、右馬助は従六位相当であるから正五位以上の刑部大輔に相当する人物は、やはり繁氏以外には考えられないのである。おそらく刑部と式部を混同したのではないかと推察される。同8月10日の項には、「今日細川右馬助 今ハ右馬頭拝任 一級事宣下下了。六月廿四日日付也。細川式部大輔一級宣下之同日也。」とあるので、政治力のある賢俊に、軍を統帥のために一族揃って官位昇進の相談に来たのではないかと思われる。この年の2月には足利直冬と山名時氏が都に攻め入った神南(こうない)の戦い(⇒;図3.)があり、先に述べた土佐の南軍を掃討するために四国に渡るなど多忙な時期でもあったが、その寸暇を利用して今後のことを“はとこ”同士で風呂に入って一日歓談するなど、何か一族の間で齟齬があったようにも感じられない。父の威光を保とうと懸命に一族と行動を共にしている健気な若武者のイメージである。

 

図3.神南合戦の絵図。右端には奮戦する南朝軍の山名師義。(絵図の師氏は誤り;拡大は画像をクリック!)。

                              (「絵本太平記」(国立図書館デジタルコレクション)より転載、一部合成;拡大は画像をクリック!)

 

         ところが、それから5年、繁氏は讃岐で急死してしまう。懐良親王を戴く九州の菊池武光らの南軍が強大化し、将軍義詮からその討伐を命じられて準備のために讃岐に下向した際の出来事であった。その様子を記しているのが「太平記」で、崇徳院の御料所を兵粮調達の“兵粮料所”に指定したために、その祟りを蒙ったというのである。守護が寺社領から軍資金などを調達する“半済”はすでに行われており、繁氏だけが特別なことをしたとは思われないのだが・・しかし、その悶絶の様子は極めて激烈で、体が燃えさかる火のように熱いというあたりは、「平家物語」の清盛の死を彷彿とさせるものがある。“悶絶僻地”という末期の表現は双方に共通であるだけになおさらである。また崇徳院の軍勢が降臨する様子も、「大森彦七」の項(⇒)の楠木正成の怨霊にも通じ、「太平記」の作者がそれらを参考にしたことは間違いないだろう。「延文四年記」の記述も含みがあって意味深ではある。しかし、ここで怨霊や妖怪の話を蒸し返したところで詮ないことで、むしろこの異常な死が単なる病死なのかどうかの方が興味深いのである。繁氏とともに家人の行吉掃部助が同時に死亡していること、その他の居合わせた人々は命には別状なかったこと、繁氏の弟の氏之が2ヶ月後の8月8日に急死していることなどから背後に何か陰謀めいたものを疑うことができる。季節がら食中毒という可能性もあるだろうが、状況から見ても毒殺されたとするのが妥当のように思われる。4年前には足利直義も(尊氏に)毒殺されたという噂が立っており、まだまだ四国における南朝軍や直冬派も侮り難く、総大将として九州発向の直前であることからもそれを阻止するために反対勢力の何者かに仕組まれたのかもしれない。当時は毒殺といっても、どのような毒物が使用されたのか不明なことが多いが、最も有名なのは鴆(ちん)という鳥の羽根から抽出する“鴆毒”で直義にも使用されたという。長い間、その正体は謎に包まれていたが(中国では絶滅のため?)最近はパプアニューギニアでそれと思しき毒鳥が発見され(⇒)、毒の主成分もステロイド系アルカロイドのホモバトラコトキシンであることが同定された。非常に強い麻痺性の神経毒で灼熱感や知覚異常を伴うというのも「太平記」の記述に合っている。植物のトリカブトやキノコ類なども用いられたらしいが、その効果にはムラがあり必ずしも成功はしなかったという。また、高濃度の砒素化合物などもすでに朝鮮などで使用されていたが急性中毒は強度の消化器症状を伴うのが特徴で繁氏の“悶絶僻地”の症状に含まれるかどうかはわからない・・あとは貴兄諸氏のサスペンス感覚に委ねるしかないのだが・・ともあれ、この繁氏の不可解な頓死によって頼貞系の嫡流はあっけなく断絶したのである。

 

図4.頼貞系系図の一部。【細川定禅、官軍を三井寺に破る】の項を参照(⇒)。

                                   (「本朝尊卑分脈」(国立図書館デジタルコレクション)より転載、加工あり;拡大は画像をクリック!)

 

         ちなみに、「尊卑分脈」によれば、頼貞には4人の子息があるが顕氏を除く3人は早くに死亡しそのうちの2人は僧籍ということもあって子孫は伝えられていない。顕氏には系図上4人の子息がいるものの図4.をよく見ると、繁氏(或は祖父の子)、業氏(実は和氏の子)、氏之(実は頼貞の末子)、政氏(或は祖父の子)と小文字で記され顕氏の実子ではないようにも見て取れる。その真偽は別としても、公頼系に比べると、その軍事力の優越性とはうらはらに血族の拡がりがあまり見られないのも事実で、八幡合戦で末子の政氏が討死し、延文4年には繁氏、氏之と立て続けに失ってしまったのは大きな痛手であったろう。ひとり残った業氏も実は和氏の子というのだから驚くほかはない。さらに驚きはこの系統は代々、陸奥守を世襲し奥州家として存続してゆくことで、清氏の弟として後の白峰合戦で頼之に尽く討滅されてもおかしくはないのだが、讃岐守護を取り上げられただけで幕府の引付衆や御供衆として生き残れたのは、清氏との戦いも所詮は義詮や佐々木道誉との私戦に介入を余儀なくされただけで、頼之に頼貞系(和氏系も含めて)を根絶やしにするような意図は最初からなかったのであろう。「細川清氏と細川頼之」(郷土文化第21号 鎌田共済会 昭和34年)で著者の猪熊信男も「(後年の)貞治七年(1368年)義満元服の時、細川家一門悉く其儀に参加し、頼之は加冠、業氏はそれに相並んだ理髪の大役を務め、永和二年(1376年)には頭人となり、同四年には南方追討の紀伊国大将軍になっている、そして頼之は清氏の此弟を最も優遇しつづけている。清氏に対する心持が左様にせしめたのであろう。」と述べている。清氏の庶子と伝えられる“美津次丸”(⇒)が東讃の石田城に落ち延びて棲息できたのも讃岐守護である頼之の温情がなければ到底叶わなかったことで、頼之の懐の大きさを物語る逸話とも言えよう。

         業氏の直系は戦国時代も、将軍の御供衆として幕府とともに代を重ねて晴経に至っている(⇒参照)。次の輝経(⇒)の養子に入ったのが細川忠興で、際どい立ち回りをしつつも関ヶ原の戦いで東軍について熊本藩の大大名となった。本邦首相を務めた細川護熙もその後胤であるから、DNA上は和泉上守護家の養子となった細川藤孝(幽斎)に繋がるものの、系図上は頼貞流奥州家の直系ということになる(⇒の系譜表参照)。室町幕府の中核をなした公頼系の管領家やその流れがほとんど断絶し、御供衆で細々と血脈を保っていた奥州家が現代日本を代表する名族中の名族となるとは、まさに栄枯転変は世の習いというべきであろう。

 

      

図4.NHK大河ドラマ「太平記」の細川顕氏(役:森次晃嗣、NHKアーカイブスより)と、首相当時の細川護熙(Wikipediaより)。

 

 

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