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『坂の上の雲』になるだろうか

S47年卒 井手浩一

 正岡子規の略年譜を読む。明治28年三月(1895年、29歳)日清戦争に近衛連隊付記者として従軍する。既に六年前に肺結核で吐血していたので、そもそも無謀な従軍だった。案の定一月余りの間に体調を崩し、帰途の船中で大量の喀血をして危篤状態に陥り、須磨で静養した後八月の終わり頃松山へ帰って来た。その時には母の八重も妹の律も東京へ呼んでいたから一旦母の実家の大原邸に落ち着くが、ここからがお山の大将の子規らしい。折良く松山中学の教員として赴任していた大学時代の同級生、つまり夏目漱石の下宿に勝手に転がりこむ。その後は居候のくせに鰻を取り寄せては勘定は漱石に押し付け、毎日のように仲間を呼んで句会を開いた。
−漱石寓居の一間を借りて− 桔梗活けてしばらく仮の書斎哉 子規
              愚陀仏は主人の名なり冬籠   漱石

 ロープウェイ街を北上すると、国際ホテルの前から来た道と斜めに交差する角がある。元『五味鳥』のあった場所である。その横に小さな石碑があって 牛行くや毘沙門阪の秋の暮(明治28.9.21) の句が書き付けてある。これは足腰の鍛錬を兼ねて吟行に出掛けた時の作品(散策集)である。この道は北に向かって緩やかに傾斜しているから(そのまま真っ直ぐ行けば愛大の正門)病後の子規には辛かったのではないだろうか。ただ元々バイタリティの固まりの彼のこと、五回の散策はとても病人とは思えない範囲に及んでいる。例えば三越の裏手近くからお城山の東を北上し、祝谷、道後、石手寺を経て御幸寺山から愛大、松大、北高を通り抜け六角堂からまた二番町へ戻るロングコースである。この散策集からほんの少し抜き出してみよう。
 明治28年9月20日午後 今日はいつになく心地よければ、折柄来合わせたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程、秋の風のそぞろに背を吹きてあつからず 玉川町より郊外には出でける 見るもの皆心行くさまなり
   秋の山松鬱として常信寺
   草の花少しありけば道後なり
   砂土手や山をかざして櫨(はぜ)紅葉

東高のすぐ西側(体育部室の裏辺り)に軽自動車がやっと通れる道がある。そこに『砂土手』の名残があり、明らかに自然の物ではない段差が付いている。
 明治28年10月6日 今日は日曜なり 天気は快晴なり 病気は軽快なり 遊志勃然、漱石と共に道後に遊ぶ 三層楼、中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず
   稲の穂に温泉の町低し二百軒
 松枝(まつがえ)町を過ぎて宝厳寺に謁(もう)づ ここは一遍上人御誕生の霊地とかや 古今今来、当地出身の第一の豪傑なり 妓郭門前の揚柳、往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかかりたるもあわれに覚えて
   古塚や恋のさめたる柳散る
 宝厳寺の山門に腰うちかけて
   色里や十歩はなれて秋の風

さて先を急ごう。子規の病状は一進一退で日によっては鼻血を出した。石手寺で目の前に落ちていたおみくじを開くと 病事は長引也 命にはさはりなし とあった。
   身の上や御籤を引けば秋の風
   行く秋や我に神なし仏なし

二人の同居生活は50日余りで終わり、10月19日には松山を発ち大阪、奈良を経て帰京するが、旅費まで漱石に借り(何と図々しい)しかもその金は奈良で使い果たしたと手紙に書く始末だった。この時に出来た句が 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 である。ただ旅の途中で腰が痛み始め当初はリューマチと思っていたが、実はこれが後に宿阿となる脊椎カリエスで、この明治28年が最後の帰郷になった。
 一方の漱石は子規をどう考えていたのだろう。残された回想録を読むと結構辛辣に欠点をあげつらっていたりするが、子規への書簡は63通に及び内容の豊富さは目を瞠るものがある。周囲から「正岡さんは肺病じゃけれ」と婉曲に言われた時も特に気にしていない。子規も心の裡をさらけ出して、ロンドン留学中の彼に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書き、子規従軍中にピストル自殺した藤野古白(子規の従兄)の名をあげ 僕ノ日記ニハ「古白曰来」(いわくきたれ)ノ四字ガ特書シテアル処ガアル と告白している。虚子から子規の死を知らされた時の追悼句
−倫敦にて子規の訃を聞きて−筒袖や秋の柩にしたがはず
              手向くべき線香もなくて暮の秋
              霧黄なる市(いち)に動くや影法師
              きりぎりすの昔を忍び帰るべし
              招かざる薄(すすき)に帰り来る人ぞ

少し先走り過ぎた。私にとっての『坂の上の雲』は子規や漱石や虚子や碧梧桐の青春時代である。みんなまだ無名でこの狭い町をぞろぞろ歩いては議論をし、多分ロクでもないこともしていた筈だ。東雲神社の石段を上がると、旧松山藩の能舞台の手前に虚子の 遠山に日の当たりたる枯野哉 の句碑があり、反対側には内藤鳴雪の 東雲のほがらほがらと初桜 の句碑がある。実際にこの句が詠まれたのは勝山町の電停から南西に行った裏通りである。そこに虚子が少年時代を過ごした家があり、二階から北を眺めると夜は田圃が鏡のように見えたという。そしてその先の湯山が『遠山』である。ついでに、市役所の正面には実にさりげなく碧梧桐の さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ の句碑がある。こうしてみると松山は奥の深い町だと思う。最後に。東高の中庭に子規と漱石の句碑が並んで立っている。この句碑建立の経緯(漱石の句碑が後から出来た)は同窓会誌の『明教』に詳しい。
   −漱石に別る− 行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ 子規
           御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花  漱石


おーもっちゃん、こんな変な文章で良いですか?辛うじて坂(阪)には引っ掛かってます。尚、古い漢字はなかなか正確に変換出来ないので一部違う字がありますが、その点はご了承の程を。
                         2009.12.16  井手 浩一




 

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