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無二

S48年卒 藤永 浩


 最初の出会いは中学一年のときでした、中学総体の開会式、当時入場行進は城東、御幸、道後の三校合同演奏でした。
スタンドに楽器をセットして、本番前の練習が始まるとスネアを叩いている私の後ろに来て、腕組みをして覗き込む人が。隣のバスドラの先輩が、「御幸の子がジッと見よるよ」と、俺が「あの、なにか」と言うと、おまえは「ううん、チョットね」と、言ってだけ向こうへ行ってしまいました。おかげで、練習はメロメロでした。
入場行進本番が始まり、気になって御幸のほうを見ると、打楽器の後ろで腕を組んで仁王立ちしてるではありませんか、結局開会式の間、演奏する姿は確認出来なかった。
帰り道先輩と「御幸は上下関係が厳しいんかなあ、道後はゆるゆるで良かった」などと話しながら帰りました。
二年になり、また総体の演奏、お前はあの右手を「ヒョット」上げる仕草で近づいてきて「ちぃとはうまなった?」と、また緊張でメロメロに本番が始まるとまた後ろで仁王立ち。「一年上やったんかあ」などと話しながら。
三年になり、もう今年はメロメロになることなく演奏ができる、と「よお!」
思わず「お前同級生か」「あれ?知らんかったん」
でも、仁王立ちは変わらず。

 高校に入学し、教室へ行くと「え!」「何でおるん」「何で来るん」
ブラスに入ろうと音楽準備室へ行くと、一番奥に腰かけていて「よお!やっぱりブラスするん?」
それから、一年十一組地学教室流浪の民の始まりやったなあ。
一年のコンクールが終ったあと、三年の先輩の家へ行こうと言い「川内やから遠い、行けんわい」と言うのに「大丈夫よ」と、一緒に出かけたものの福音寺でダウン、結局ボーリングをして帰ったなあ。
二年になった春休み、練習日にボールとグラブを持ってきて「チョット付きおうてや」と、アレがキャッチボールの始まりやったなあ。「あのな、ボールを投げるときは肩、肘、手首、指と順番に力を移行していくとええんよ」
今思うと、アレキサンダーテクニックやないか。

卒業し、お前は愛大農学部へ、「なんかサークルに入った?」と聞くと「うん、野球部」しばらく、絶句「で、ポジションは」「いまんトコ、ライトの後ろ」三年のとき「ポジション変わったんよ」「どこ?」「今度は、キャッチャーの後ろ」「・・・」
幾つかバイトも一緒に、堀の内の野外で愛媛県で初の現代美術の展覧会、セッティングの仕事で俺は変な形や異様な素材に戸惑っているといると、総合演出の東京芸大の教授がお前の所へ行き「君には作者の意図が解る様だね」と、しきりに感心し美術の世界へさそわれていたよな。
全日本プロレスが県民館に来た時のバイトでは、リングの設営が終った時になぜか二人だけ呼ばれ、ジャイアント馬場さんのお世話係を頼まれリングシューズを履かせたり、ここでもおまえはスタッフにならないかとさそわれてたな。 
おまえが大学七年目に入った春休み、深刻な顔をして「相談があるんやけど」
「どしたん?」「ゼミの教授が、もう定年が来るので卒業してくれないかって」
「どうするん?」「八年間、目いっぱい行きたかったけどな」「・・・」
音萌でも、チャイコの1812年で大砲の音の担当になった時「大砲の音は誰のスウィングがええかなあ?」「えっっ?」「門田?張本?」「ム・・・」「あっそうや!やっぱり遠井やな」「・・・」
アフリカンシンフォニーのときは「このリズムって黒姫山の突き押しや富士桜のがぶり寄りに通じるもんがあるよなあ」
パーカッションのミーティングと称した食事でファミレスへ行くと、メンバー皆おまえのオーダーに聞き耳を立てたもの、特に「今日はあんまり食欲がないんよ」と言った時のチョイスにはいつも驚きがいっぱいでした。

 最初の出会いから四十七年が経ったよなあ、こうやって思い出を書いていると止め処なく出てきて、それと共に辛さがどんどん増してくる。
四十九日忌を迎えた今日七月一日にこれを書いているが、まだ心の中で整理が出来る様な状態ではない。やっぱ,原稿なんか引き受けるんじゃなかったと今でも思っている。
 俺が病院で読ませてもらった九作目になる小説、エンディングは二つあってどっちにするか決め兼ねとったよな、術後に見せてくれる約束やったのに。
まあ、また会うまでに練っといてくれよな。

 四十一回目の演奏会は、久しぶりに一緒にステージに立とうや。




  

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