INDEX 1 2 3 4 5 6 7 8 9


恩師

橘 浩二(昭和55年卒)

 ひとしきり私の一方的な思い出話を聞いてくださり、「あの頃は、楽しかったねぇ。」と目を細めて笑って答えてくれたのが最後でした。昨年12月にあんなにお元気だった杉森幹子先生が、年明け11日には帰らぬ人となりました。
 先生には昭和52年と53年の二年間、松山東高音楽部でご指導いただきました。なぜか「音楽部吹奏楽団」、「音楽部合唱団」と先生は公言していて、私や何名ものブラス部員が合唱祭や合唱コンクールにも出場していました。逆は少なかったようですが。
 昭和54年4月、先生は東温高校に異動になりました。私は当時重信町に住んでおり東温高校のすぐ近くだったので、春休みにコーラス部長イワイ君とブラス部長タナカ君と三人で先生を学校まで案内しました。どんな話をしたかもう忘れてしまいましたが、不安で泣きそうな先生の顔をその時初めて見ました。
 その後、偶然にも私の弟が東温高校に進学し、吹奏楽部だったもので親交は長く続きました。私の父も当時松山東高から東温高校と勤めていたので、父母もおつきあいがありました。妻も1年下でブラスもコーラスも指導を受けていて、結婚式の仲人は先生ご夫妻にお願いしました。さらに義兄は松山東高コーラスの先輩。まさに一家をあげてのご縁でした。
 音楽室に絶対はない。音楽室で友人らと口論している時、よくそう言って一喝されました。野球応援の時には、楽器庫の奥から古い楽器を出して使うように言われました。今はどうなんでしょう。吹奏楽コンクール県大会に二度指揮者として出場されました。舞台袖ではひとりひとりと力強く握手してくださいました。今となっては先生の優しいお姿と思い出ばかりですが、記憶の奥の方から激しい恐ろしい先生の怒った表情が蘇ります。コーラスではメトロノーム(の蓋)が飛んできたそうです。ブラスでは指揮棒がよく飛んでいたことを思い出しました。
 先生は、そんな私の昔話を聞いて、「あの頃は、楽しかったねぇ」と言ってくださいました。松山東高創立百年の節目の音楽教諭として大きな足跡を残され、私たち教え子に多くの思い出をくださった先生。安らかに。




  

ホームへの非常口