つまらないことばかり
S47年卒 井手浩一
藤永君と橘君の良い文章の後で、何を書くことがあるのかという声が聞こえて来そうですが・・。藤永君の文章にある《御幸中学》も《城東中学》も既にありません。あるのは《東中》とかいう、我々には縁もゆかりもない学校ばかりです。校舎もグラウンドも正門も当時とは全然違い、卒業生が集まると「あそこまで徹底して変えなくて良いだろうに」と文句が出ます。
その御幸中学はまさに「ゆるゆるの」中学でした。厳しかったのは当時のコンクール名門校だった拓南中学です。後年東高へ来て御幸の先輩と「○○君」と友達感覚で話していたら、拓南出身の某教男君にビックリされました。某河野にも「お前、そんなん言うてええんか?」と言われました。同級生にもかかわらずなぜ「教男くん」と言うかは、彼が人格者だからです。後で触れる杉森先生にお説教をくらう時も「イデ、コーノ、教男くんちょっと来なさい」という具合でした。
それはともかくとして、亀井君とは妙に縁がありました。去年亡くなったうちの母と、彼のお母さんが昔の高等女学校で知り合いだったらしく、初めて家に遊びに行った時からすごく親しそうにしてくれました。わたしが高校二年生になったばかりで亀井に「お前、ブラスに来いよ」と誘いに行ったのですが、その前から既に入ろうと決めていたみたいですね。当時は小物の名手という印象がありましたが、この小物を合奏中にボロボロ落とす、それも一度や二度ではなく、ついに業を煮やした某同級生が「お前、ええ加減にせんか!」と一喝、東高ブラスが一番野蛮だった頃の出来事なので、教室がシーンとしました。
その後は一挙に場面が飛びます。大学を7年掛けて卒業した後はしばらく大阪で働いていたと思います。本人に言わせると「不規則な勤務と食生活のせいで」内臓を壊し、松山へ帰って来てアルバイトか何かで凌いでいたと思います。たまたま町で会って「そしたら、お前ここへ行ってみんか?」と知り合いの会社を紹介し、幸い社長に気に入られて入社、ここで10年近くは働いたのではないかと思います。せっかく「亀井君は陰日向なく良く働く」という評価も貰っていたのに、今でも良く分からない理由で辞めてしまいました。社長のお嬢さんにはそれから何年も「亀井さん、どうしてうちの会社、やめてしまったんでしょうね」と会うたびに言われました。公平に見て、給料もそのほかの待遇も良くして貰っていたのに。
ここから一挙にシーンが飛びます。10年くらい前に本人の不注意で瀕死の重傷を負い、慌てて県病院へ飛んで行きました。「お前はアホじゃ、どんくさい奴じゃ」と本気で腹が立ったのを憶えています。傍にお母さんが居るのに昔の合奏中と同じ気分になりました。特にこの一年は全くの不運続き、最後にメールを貰ったのが永遠に意識を失う直前「生きとったらまた連絡します」と縁起でもない会話を交わしました。その時のショートメールはまだ消していません。
さて、杉森先生のこと。すごく失礼な言い方をすると、先生ご夫妻は音楽以外のことに掛けては高校生並みの知識だったのではないかと思います。幹子先生が南高を最後に定年退職されてその年の春「所長、スギモリかスギムラかという女の人から電話ですよ」と言われ、慌てて電話に出たら「イデくん、私は何も分からないから教えて下さる?」と至って丁重でした。あれは修辞でも何でもなく本音だったと思います。それから何年かおき、節目節目で「何も分からないから・・」という決まり文句で仕事の依頼がありました。
いくら相手は素人とはいえ高校の恩師、いかに中身を砕いて説明するかに腐心しました。もちろん理解力は抜群ですから「要するにこういうことなのね」とニッコリ笑われるとホッとしました。二回目か三回目の仕事が終わった後で「イデくん、相変わらず音楽聞いてるの?」と言われ「はい」と答えると「これ、あなたに差し上げるわ」とグラモフォンの吹奏楽全集、確か10枚組のLPのセットを頂きました。今となっては古風極まりない響きがしますが、大切な記念になりました。
杉森先生ご夫妻とも一挙にシーンが飛びます。去年の八月、音萌の本番の直前に栄治先生が亡くなられ、まだ二週間も経たず、九月になる前にまさかと思った幹子先生から「イデくん、私何も分からないから・・」とお決まりの口調で電話がありました。急遽担当を決めて二人で岩崎町のご自宅へお伺いし「先生、ヒトが一人お亡くなりになるのは大変なことなんですよ」と概略をお話ししましたが、正直、あの時は半分も理解されていなかったのではないかと思います。冷房も何もない酷暑の部屋だったから「これは熱中病でやられるんじゃないか」と不吉な予感がしました。それから半年もたたず、明けて1月の半ばにひっそり逝かれました。同級生の宮岡校長の弔辞を借りればずっと仲の良かった「あんにゃま」の元へ早く行かれたかったのだろうと思います。
思い出すのはつまらないことばかりです。ただ、亀井とも杉森先生とも一時期本音の付き合いをして、その時の記憶がもう永遠に会えない人とのよすがになるのを感じます。去年死んだ母にも「あんたはけしからん!」と物を投げつけられたりもしたけれど、まだわたしを息子だと認識できた頃に「死んだらもう会えん」と泣きながら言われたのが今は救いです。
いつもながらの乱文失礼しました。藤永君と橘君に触発されてつい書いてしまいました。
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