ルチル(国領川)

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 愛媛県新居浜市国領川で採集されたルチルである。おそらく上流から流れてきたものであろう、摩滅して丸まった結晶片岩中に直に入る豪快な産状は、小さいながらも我が愛媛の誇る大関級鉱物の赴きがある。母岩が堅牢なため残念ながら条線や端面は見られないが、暗赤色に妖しく光る金剛光沢は見る人誰しもをうっとりとさせる魅力に満ちている。思えば小生もルチルのこの美しさに魅せられて、何度、五良津に通ったことであろうか・・2000年以降は幾たびか大水害に見舞われ、昔に較べると随分と山道や地形も様変わりしてしまったが、今も変成鉱物を求めて多くのマニアや研究者が訪れ、鉱物採集のメッカとしてその地位を不動のものとしているのは喜ばしき限りである。一方、国領川のルチルとなると、藍晶石やキースラガーの影に隠れてあまり知られていないというのが正直なところではないだろうか。しかし関川も国領川も元を辿れば、同じ赤石山系の結晶片岩帯に属しそれを横切る東平角閃岩や蛇紋岩帯も一通りは揃っており、数こそ少ないがマイントピア近くの川原でも立派なチタン鉄鉱やクサビ石などが採集されていて、ルチルがあったとしても何ら不思議な事ではない、そこで今回は、この国領川こそが四国最初のルチル産地であったと主張する拠り所を少し述べてみたいと思う。

 

 四国でルチルと言えば、最も有名なのはやはり徳島の眉山であろう。石英中に輝くその巨晶は戦前から数多くの文献で紹介され、海外へも輸出されており、市之川鉱山の輝安鉱と同じく、今も全世界の博物館や研究機関に大切に保存展示されている。ごく稀に海外からの里帰り品が鉱物専門店から売り出されたりオークションに出品されることもあるが、競争倍率が異常に高く小生は未だ一個も所有できていない。ことに最近はインターネットで「あなたはおもちですか?鉱物コレクターの資格審査」(原典は岡本要八郎、桜井欽一先生撰)なるテスターも用意され、眉山のルチルも当然その中に含まれていて、悪い意味ではないのだが、こうも煽られては多くのコレクターが眼を皿にして探すのも道理で、ますます入手を困難にしている一因ともなっている。ちなみに小生などはこれを見る限り、30%以下の「コレクターという資格はない」で、甚だ情けなく寂しいという外ないのだが・・T_T・・それなら自己採集しようと現地に行ってみたところで其処は徳島市内の閑静な住宅街、おまけに病院の裏山ということもあって、以前にハンマーを持ってウロウロしていたところ、同院の警備員に厳しく誰何されほとほと弱った経験もある。いずれにせよ採掘場所はすでに何も残ってはいないので採集などまず絶望的とみていいだろう。「徳島県地学図鑑」の中で岩崎正夫先生は、「戦時中にチタン採取を目的として採掘されたといわれている。」と推察されているが、後で記するように眉山のルチル自体は明治時代から知られていたので、それに眼を付けて戦時中に軍事目的で再掘されたというのが真相なのではないだろうか?

 さて、明治時代の代表的鉱物誌といえば、やはり和田維四郎博士の「日本鑛物誌」(明治37年)と「本邦鑛物標本」(明治40年)となるが、前者の「日本鑛物誌」には、「金紅石 此鑛は主として美濃恵那郡高山村の河砂中に混し錫石採取の際得るものなり・・又伊豫別子銅山に於て石英塊の中に凡二十ミリ位の塊状をなせるものを産出せしことありと云ふ(比企氏地質九巻一○一号)」とあって、以外にも眉山のルチルは全く記載がないのである。それどころか産地に別子銅山が挙げられているのは新鮮な驚きとともに愛媛県人にとってこの上なく誇らしい気持ちにさせてくれる。ところが、それから僅か4年後の「本邦鑛物標本」では別子銅山産が姿を消し、替わって「金紅石 阿波徳島市前山産 方一一センチ内外なる石英の塊にして其表面に多数の金紅石の柱状結晶を付着す 其大なるものは径八長さ二○ミリに達す 此結晶中の一二は錫石式雙晶を示す。(「徳島市前山」とあるのはおそらく「徳島市眉山(まゆやま)」の誤記であろう。)」と眉山産ルチルが彗星の如く登場し、おまけに一気に眉山ばかり4種類ものルチルが紹介されている。(2001年に東京大学出版会から出版された復刻版では、その見事な標本写真をDVDで見ることができる。)この4年の間にどのような情勢の変化があったのであろうか。・・おそらくドイツのクランツ商会が世界的標本としての眉山の紅簾石を取り扱う内に同所のルチルの巨晶が見いだされ、急速に代表的産地として広まっていったのではないかと小生は推測している。加えて別子のルチルはあくまで地質學雑誌からの“又引き”で、和田博士自身が所蔵する標本ではなかったので、あっさりと除外されてしまったのであろう。

 

 そうなると「日本鑛物誌」にある「比企氏云々」という記事が気になる。地質學雑誌第九巻は1902年(明治35年)の発行で、そんなに古い学術雑誌は、旧帝大系の大学図書館か国会図書館にでも行かなければまず検索不能であった。ところが最近は、CiNiiと呼ばれる大学専門の図書検索システムが、限定的ではあるが一般に無料で公開されインターネットで簡単に利用できるようになった。これまで小生も高い年間使用料を支払ってこのシステムを利用していたので、些か理不尽さと嫉妬を感じたのも事実なのだが、これも情報公開が進む“時代”ならではの賜物なのだろう。幸いにもこの記事もうまくヒットしたので参考までにその全文を次に挙げておく。「別子の金紅石 我教室の阿部教授夏期休業中の旅行の際 伊豫国別子銅山に於て同所役員某氏の珍重せらる丶ルチール石一個を請ひ受けて帰學せられたり 石英塊の中に凡六分位の塊状をなせるものあり 此珍石は素美麗なる結晶なりしが子供の玩弄品となりて破砕せられたるものの由なり 阿部氏の話に依れば岩佐巌氏同所在住の節同石を所持せられたるを覚ゆ 同石が将に異なれる者なるやは審ならずと 兎に角同山より産出せし事は確にして我邦には特に稀産なれば参考として報道す(京都大學 比企)」。 岩佐巌氏とは、元東京帝大理学部教授、広瀬宰平の招きで山根精錬所を建設、製鉄事業にも力を尽くすが採算割れで中止となり宰平辞任と前後して別子を去った人物で、塩野門之助とともに黎明期の別子近代化に尽くした技術者のひとりとして今日も評価が高い。和田維四郎と同じ福井県人であるのも何かの因縁を感じさせる。彼が失意の内に別子を去ったのは明治27年なので記事のルチルが同一のものとすると、眉山産が記載される20年近くも前に、別子のルチルがすでに認識されていたことになる。これも明治初年にフライブルグ大学にまで留学し医師から化学技術者に転身した俊才、岩佐巌の確かな鑑石力があればこそと言うことができるだろう。しかし惜しいかな、「特に稀産なれば」の通り、別子での標本供給が続かなかったのか、すぐに良質の標本を多く産出する眉山に取って替わられてしまったのは残念としかいいようがない。その後、別子のルチルを示す文献も見当たらず、皆川先生の「四国産鉱物種」にも記載がないところを見ると今はすでに忘れ去られた産地となっている。

 

 そう考えると、この国領川のルチルも参考程度ながら、日本鉱物学の魁である「日本鑛物誌」に記載された、嘗ての栄光を偲ぶべき意義ある標本と言える。ただ、岩佐氏が当時、別子銅山の何処で採集されたのかはまったく不明なので、これを以て別子のルチルとするのは、いささか羊頭狗肉の感は否めない。おまけに肝心の原標本が現在も京都大学に保存されているかどうかについては定かでないので、現物自体がすでに散逸してしまっている可能性も残る。できれば別子山中にわずかに残るズリ場や施設跡の堆積場で、正真正銘の「別子ルチル」をどなたか採集していただきたいと念ずる次第である。

 翻れば、「日本鑛物誌」に見る往年の名産地、別子も眉山もすでに消滅して久しいが、替わって愛媛県では五良津保土野、瀬場、少し変わった処では市之川(愛媛石の会会誌第5号 南氏論文)などが、高知県では桑の川周辺、徳島県では高越鉱山、鉱物的には不毛と言われる香川県にも猫山鉱山(楽しい鉱物図鑑 堀秀道先生)が記載され、四国4県すべてで新しい産地が今もなお報告が続いているのは頼もしい限りである。普遍的な造岩鉱物なので、記載地は今後ますます増えていくことであろう。それは裏を返せば、人を惑わせるあの艶のある金剛光沢と結晶の美しさに魅せられて、ルチルをこよなく愛する隠れた収集家が巷には数多く存在するということの顕れでもあるのだろう。

 

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 ちなみに上の写真は小生の所有する四国のルチル3種。左側は五良津産。小さいながらも条線が発達して太さは1cmほどもある。石英の中に存在する典型的な姿。中央は別子瀬場産。オンファス輝石を思わせる角閃岩の中に直接、柱状結晶が伸びている。最近、とみに有名になりつつある産地である。右は高知県桑の川産。石英中に長さ7cmに達する巨大な結晶が埋もれている。残念ながら条線は見ることができないが大きさの点では、まず四国一の産地ではないだろうか。

 極め付きは下の写真で、新居浜市立郷土美術館に展示されている五良津産の巨大結晶。愛媛石の会会員のK氏採集品。硬い母岩の中からこれだけ見事な結晶を得るのは稀なことである。川流れの摩滅や破砕面もなく、うっとりするほど美しい代表的標本。これを見れば、五良津が眉山に引けを取らない大産地であることを納得することができるだろう。

 

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