コバルト華(別子鉱山)

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 先日、四国に帰省の折、鉱物専門店から入手した別子鉱山のキースラガー標本をじっくりと眺めていた。三菱金属鉱山に勤められていた技師からの放出品で、別子の他に浅川鉱山や高越鉱山など徳島の鉱石も多く含まれていた。別子での採集は、「S34.3. 2?L Bessi Mine 」と記された紙片が貼付されているので、おそらく昭和34年に先進する20L以下の下部鉱床からなされたものであろう。イヤかアツバクと思われる塊状鉱は品位2〜3%程度で、石英を混じる結晶片岩に接する様子も特にこれといった特徴はないのだが、三菱と住友はいわば鉱山のライバル会社でもあった訳だから、徳島を中心に展開する自社のキースラガー鉱石との比較のために大切に保存していたのだろう・・などと思いながらそのまま引き出しに仕舞い込もうとしていた刹那、ふと母岩の表面に染みのように付着する淡桃色の土状鉱物に気が付いた。採集されて相当の時間も経っており、あるいはチョークとか他の人工物が付着しただけかもしれないな?・・と、ルーペで周囲を隈無く観察するのだが、“染み”はこの周囲だけに存在し、しかも結晶片岩のちょっとした裂罅に沿って分布しているようにも見える。そうしたことを総合して、これはひょっとしたら噂に聞くコバルト華かも!?・・・という(やや都合のいい)推論に達したのである。最終的には成分分析をしないと断定はできないのだが、この項では、別子のコバルトについて纏めて述べてみようと思う。

 

 愛媛におけるキースラガー鉱床の含コバルト鉱物の代表としては、佐々連鉱山のカロール鉱と大久喜鉱山の輝コバルト鉱が挙げられる。カロール鉱に関しては、別子でも見られることが小生の斑銅鉱を堀先生に分析していただいて初めて明らかとなった。また、「住友別子鉱山史」によれば、別子本山の26〜32Lの下部鉱床では、黄鉄鉱の磁硫鉄鉱化に伴って、輝コバルト鉱、コバルトペントランド鉱、マッキナワイト、コバルトマッキナワイト等が生じることが報告され、磁硫鉄鉱化によって黄鉄鉱中のCoが排出され、新たな相が生成したものと推測されている(加瀬ら、1988)。こうした稀産鉱物ならずとも、別子のコバルト含有量は普遍的で、他のキースラガー鉱床に比べて高いことが知られており、戦前には回収の対象となったこともある。下図は、「日本地方鉱床誌 四国地方」(朝倉書店 昭和48年)より抜粋の四国の主なキースラガー鉱床のコバルト含有量の対比。だが、残念なことにこれには大きな誤りがある。徳島県の東山鉱山の Co% は 0.814% となっているが、出典と思われる「日本鉱産誌 T−C」(地質調査所編 昭和29年)によれば 0.0814% が正しいようだ。さらに遡れば、原典は、内野正夫氏の「含銅硫化鉄鉱焼鉱の湿式製錬に於ける副産物としての酸化コバルト回収法に就て」(1927年)という論文らしいので参考までに・・1927年は昭和2年に当たるので随分と古い論文だ。

さて、以上を考慮しつつ、この表を見ると、同じキースラガー鉱床でも、徳島や高知の代表的鉱山のコバルト含有率はどこも似たり寄ったりで、そう高い数値でもなさそうである。それに比べると別子と佐々連の含有率は他より数倍以上の数値を誇っており、同様の事はニッケルにも言える。愛媛の鉱山における土井正臣氏の分析は1962年(昭和37年)と比較的新しいので、戦前の内野氏に比べると充分信用するに足るのではないだろうか? 同じ別子でも、上硫と上銿(ヒ)では差があり、先に述べたように上部鉱床と下部鉱床でも構成する鉱物の種類が異なることを考えると、鉱床の場所によってもコバルト含有量には相当の隔たりがあるのは否めない。それが何に原因するのかは今ひとつ不明なのだが、0.46% という数字は下部鉱床ではほとんど銅自身の平均品位と等しいので、別子にとってコバルトは銅と並ぶ主要鉱物のひとつと考えることも出来よう。だが、それらがカロール鉱やコバルトペントランド鉱などの稀産鉱物だけに由来するとは考えにくく、やはり鉱床にはコバルトが目に見えない形で普遍的に含まれているのであろう。逆に含有率が高いからこそ、他のキースラガー鉱山には見られないそうした珍しい含コバルト鉱物が別子と佐々連で相次いで発見されたのではないだろうか?

 

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                                       (「日本地方鉱床誌 四国地方」より抜粋)

 

 一方、輝コバルト鉱やコバルト華には砒素が含まれる。この砒素はほとんどが硫砒鉄鉱に由来するもので、本山坑22L付近には母岩中の断層に沿って微少な硫砒鉄鉱が認められ、同じレベルで産したと思われる小生の黄錫鉱にも少量の砒素が含まれることなどから、既存の微量の砒素が断層異常構造の生成に伴って凝集した可能性が指摘されている(津乗らによる、「日本地方鉱床誌 四国地方」)。そうした砒素が普遍的なコバルトと反応してコバルト鉱物が下部鉱床に局所的に生成したとは考えられないだろうか?しかし、それは小生の推測に過ぎない。その程度では輝コバルト鉱など生じる筈はないとお叱りを受けるかも知れないが、ここではその可能性を述べるに止めることにしよう。ともあれ、ルーペで覗くコバルト華は本当に綺麗な薄ピンクの色合いを呈し、針状に伸びた結晶らしき構造もわずかに認められる。山口県の長登鉱山や兵庫県の夏梅鉱山産の華麗な標本とは比ぶべくもないが、銅と並ぶ別子の主要元素であるコバルトを目に見える形で具現する数少ない鉱物として極めて価値ある一品と小生は自負するのである。

 

 元来、日本にはコバルト鉱石の産出は少なく、古くは長登鉱山の輝コバルト鉱が有力視され、1917年から試験的に酸化コバルトの製造を開始したが採算折り合わず、不成功に終わった。太平洋戦争中にも各所のキースラガー鉱山において含コバルト鉱物の採掘と精製が試みられたが、戦後まで継続できた鉱山は皆無である。これはコバルトが鉄に類ししかも磁性を帯びていることから、通常の乾式精錬では磁鉄鉱とともに電磁石で除去され、さらに゚(からみ)とともに流出してしまうので採算の採れる回収が困難だからである。(現在の住友におけるコバルト製造は海外から輸入したニッケル鉱石によるものでキースラガーの鉱石とは無関係である。)しかし、キースラガー鉱床に微量のコバルトが含まれることは古くから知られており、別子銅山では、明治19年(1886年)、東京帝大より岩佐巌教授を招聘し、山根で湿式精錬所を本格稼動させ、湿式銅を回収するとともに、本邦初の酸化コバルト製造にも成功した。日本のキースラガー鉱石、特に低品位鉱石から銅を抽出する湿式精錬の有用性は、すでにコワニェによって広瀬宰平に提言されていたが、残念ながら最初の導入は小坂鉱山(明治8年)と足尾銅山(明治10年)に先陣を譲り、別子銅山では明治13年に弟地に本格的湿式精錬所が竣工したのが本法の開始年月とされている(別子開坑二百五十年史話)。小坂鉱山では、ネットーの意見を取り入れて、塩化焙焼の後に銅を沈殿させるハント・ダグラス法を導入したのに対し、別子では工部省傭英人ゴットフレーの元に練習生(山名純平、加藤徹二ら)を送り、酸化焙焼後に鉄屑を以って銅を沈殿させる方法を採用したもので、本法は今もなお廃坑の鉱水処理に応用されている。ただ、設備的には当時最先端の化学装置や原料を多々要し、それを外国から取り寄せたり、使用法を和式精錬しか知らない文明開化直後の邦人に会得させるのがなかなか困難であったりと、さすがの広瀬宰平も持て余して辟易としたらしく、時の銅山支配人に泣き言の手紙を書いたりしているのは今から見れば滑稽である。

 

そのような状況に鑑み、湿式精錬法の抜本的改良をするために白羽の矢を立てたのが岩佐巌教授であった。氏は若狭の産、最初、医学を志したが明治最初の官費留学生としてベルリン大学とフライブルグ大学に渡った後、鉱山学に転向し帰国後、東大で教鞭を執っていた。広瀬に請われて工師(広瀬が岩佐のために設けた特別な職位)として新居浜に赴任後は精力的に事を進め、今後の別子銅山の在り方についての意見書を出すとともに新たに山根湿式精錬所を建設した。また廃棄される鉱石に多量に含まれる鉄分を製鉄に応用しようと広瀬の後押しの下、半ば強引に製鉄所建設を推し進めた。右下図は「明治工業史」に残る(ドイツ仕込み)岩佐式湿式収銅の工程表。「苦抱爾篤」とあるのが「コバルト」である。それまでの複雑な沈殿過程を簡略化し、おそらく酸化焙焼(後年、塩化焙焼に改良)の後、沈殿桶に鉄を加えイオン化傾向の差を応用して銅と酸化コバルトを分離したと考えられる。彼自身の論文「別子銅山悪鉱収銅法」(「日本鉱業会誌」明治22年10月 (住友史料館報29号 所載))に依れば「苦抱爾篤ハ元鉱中含有スル所最モ微分ナリ、故ニ之ヲ獲収スル亦多シトセズ、然レトモ今之ヲ製スルノ元料ハ已ニ抜銅シタル廃母液ナルモノニシテ、沈殿ノ後チ廃流セントスル液量許多アリ、一日百石以上生出シテ、其中含有スル所ノ苦抱爾篤ハ凡ソ一万分ノ七内外ニシテ、今之ヲ酸化物トナシテ収取シ得ベキモノ当時十封度余ニ止マレリ、他日尚ホ沈殿業ヲ拡張スルニ到レバ従テ之ガ産額ヲ増加シ得ベキハ敢テ疑フベキ所に非ラズ、従来本邦陶器師ハ通シテ支那産毫須ヲ使用シタルモ、今ヤ本邦製産純粋ナル酸化苦抱爾篤ヲ獲ルニ在テハ、其藍色愈ヨ鮮明ニシテ、敢テ西洋産陶器ノ染色ニ譲ラザルニ到ルベキナリ。」と、本邦初産コバルトの優秀性を強調している。当時は陶器の絵付け程度しか用途がなかったコバルトも、住友と縁の深いKS鋼をはじめ今日の金属素材としての有用性を彼が知り得れば、おそらく力説もこれに百倍したことだろう・・さらに焼鉱の亜硫酸ガスを鉛室に導き、硝酸と反応させて硫酸を製造したのも画期的である。ただ悲しいかな、当時の技術力では完全な脱硫とはなりえず、周囲の煙害は深刻化し、農民との長い戦いの“魁”になってしまったのは岩佐にとっても甚だ不本意であっただろう。また、頼みの製鉄業もイオウや銅分を完全には分離できず海外の製品に太刀打ちができないばかりか、富国強兵の原動力となる兵器製造用にも適さずとの引導を大阪砲兵工廠から渡されて完全に頓挫し、岩佐はその責任をとる形で明治27年、別子銅山を辞職した。その後を追うように広瀬もまた辞任に追い込まれたことは、小生の“胆礬”の項でも述べておいた。唯一、明治23年の第三回内国勧業博覧会に出品したコバルトや硫酸見本が、時事新報社から金牌を与えられ、明治25年には宮内省へ献上の栄誉に浴したのが、未だ暗き黎明の空に輝く一筋の流星が如き光明であったろう。

 

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                 (山根収銅所の工程表(左)と、宮内省に献上された製品見本。左から、酸化コバルト、胆礬、緑礬、硫酸(右))

 

 失意の内に別子銅山を去った岩佐は、同じ瀬戸内海に浮かぶ広島県竹原市の契島(現 東邦亜鉛株式会社)で、決意も新たに再び銅精錬所の建設に携わったが、まもなく病を得て明治326月にこの世を去った。享年46歳であった。明治32年といえば、新居浜精錬所の煙害騒擾が頂点に達した時期。その報道に接しながら、彼のこころに去来したものは果たして何だっただろうか?・・自分の湿式精錬を否定した住友に対する嘲笑だったか・・或いは乾式精錬を推し進めたライバル塩野門之助の技術を以ってしても煙害はどうにもならぬと諦観しながらの静かな瞑目であったか・・・棄てられる鉱石からも他の有用な鉱物や化学物質が抽出できる!・・余りに時代に先行しすぎた早世の俊才、岩佐巌の夢は遥かな時の流れを越え、60年後のペテルゼン式硫酸製造法や、120年後の新素材用レアメタルであるコバルト回収の国家的戦略としてようやく結実したのである。

 

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(岩佐巌の名前を冠し「巌根橋」とも呼ばれる生子橋。春には彼を偲ぶかのように美しい桜が咲き乱れる。)

 

                    (追記:本記事を書くに当たって別子銅山記念館から貴重な情報を戴きました。深く感謝いたします。)

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