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パーカッションパートで藤永さんと縁の深い真鍋さんに書いていただきました

藤永さんを偲んで(想い出)

S49年卒 眞鍋昌嗣

改めまして、謹んで藤永さんのご冥福をお祈りいたします。
私は昭和46年4月に松山東高校に入学し、その翌週にはブラスバンド部が練習をされていた練習場所に向かっていました。
今は跡形もありませんが、当時の一年生と二年生が使っていた教室の棟とそれを繋ぐ渡り廊下(卒業生の合格一覧が張り出されていた所です)が練習場所でした。

中学校では打楽器(特に、テインパニーでした)を担当していましたので、直ぐにパーカッションの所に向かいました。
先輩は3人(藤永さん、亀井さん、渡部(由美子)さん)でした。
入部を藤永さんにお願いして、その日から練習に参加させていただきました。何を担当するのって優しく藤永さんと亀井さんからおっしゃっていただいたのを、覚えています。
今振り返ると、その頃から藤永さんをはじめ3人の先輩方はとても後輩思いの優しい先輩だったと思います。
何をっていわれても、テインパニーしか経験がありませんでしたので、それでお願いしますと伝えますと、先輩の皆さんは暖かく了承していただきました。

しかし、我流でやっていた中学校とは違って、全く高校では通用しません。まずチューニングが何のことかわからず、一からどころか、マイナスからの練習開始です。夏にはコンクールがありますので、毎日必死でした。自由曲は「展覧会の絵(指揮者は、井手さんです)」でした。
最初は全く歯が立ちません。毎日遅くまで、スティックの持ち方や使い方にはじまり、それが終わるとチューニングの訓練です。
毎日遅くまで、藤永さんはじめ先輩の皆さんにはとてもお世話になりました。
中でも一番苦労したのが、チューニングです。今のペダル式とは異なり、周りにある約10個の小さいつまみを回して皮を張ることで、音を合わせなければなりませんでした。微妙な音と音叉、耳だけが頼りの世界、改めて先輩の方々の素晴らしさを痛感した思いでした。

特に展覧会の絵の「バーバヤーガの小屋」から「キエフの大門」へ移るつなぎ間奏の数十秒の間に音を変更する必要がありました。
当時は、テインパニー2台しかありませんでしたから、もうそれは大変でした。藤永さんには、音叉の使い方からはじまり、どのように音を合わせればいいか(皮に向かって声を出す等々)本当に基礎から高等技術まで教えていただきました。大会は銀賞でしたが
とても厳しくそして楽しい期間でした。今走馬灯のように、先輩方に暖かく囲まれて過ごした練習が思い浮かびます。

2年に上がった時には藤永さんや亀井さんは3年生で、藤永さんは、指揮者になりましたので、新しく入ってきた後輩2人の世話は私がすることになっていました。受験などでお忙しい中、藤永さんや亀井さんのご指導もいただきながら、当時の部長という大任も並行させながら、なんとかコンクールまで頑張ってきたのを覚えています。藤永さんの指揮者という大変な責務を見事にこなされ、この年のコンクールは金賞でした。
残念ながら四国大会には出られなかったのですが、お陰様で栄誉ある県民会館の壇上に立つことができました。
本当にお疲れ様でしたという思いとともに、頭が下がる思いです。

徒然なるままに色々書いてきました。
まだまだ想い出はたくさんあり、書き足りないこともありますが、このあたりで締めくくりたいと思います。

最後に、藤永さんも亀井さんも、もう故人となられました。
一番近かった先輩がもういない、悲しく残念でなりません。
でも楽しい、良い想い出として胸におさめておきます。
今年の「音萌の会」では、特にお二人並んで天国から楽しくお聴きになられていると思います。いつまでもこの「音萌の会」が継続できますよう、藤永さん天国からお守りくださいね。