長年仕事でたくさんの人と出会ってきたが、そのなかには不思議なご縁があったなあと思える人が何人かいる。その一人が宇和島の遊子(ゆす)漁協の組合長で、全国かん水養魚協会の会長としても活躍されていた古谷(ふるや)和夫(かずお)さんである。体験に基づいたその識見もさることながら、非常に人間味豊かな方で、私は古谷さんのおかげで真珠養殖や魚の養殖への関心が深まり、平成8年、宇和海でアコヤガイの大量斃死(へいし)が発生してからは、なんとしても書き残したいテーマのひとつになった。
それまでの私は、海の環境汚染をはじめとするさまざまな報道を目にしていたせいか、魚の養殖にはあまりいい印象を持っていなかった。しかし、古谷さんの考えや遊子漁協の取り組みを知るにつけ、生産者もずっと海で生きていくことができるよう懸命に努力していることがわかった。
ある取材で、ハマチを養殖している3世代家族のおじいさんに話を聞く機会があり、養殖をするようになって何が良かったかと尋ねると、家族揃って仕事ができるようになったことだと答えた。若いころから都会へ出稼ぎに行っていたその人は、奥さんと息子さんの3人で魚を育てていた。養殖は、厳しい風土に生きる人々がようやく手に入れた、安定した生活の手段だった。
アコヤガイが大量斃死した原因はわからなかったが、過密養殖が影響していることは明らかだった。その背景には、もっと豊かになりたいという人々の思いがあり、古谷さんが声を大にして説得しても、聞く耳を持たない人が多いように見えた。私は養殖業とはなんの関係もない人間だが、3世代家族のお孫さんもここで生きていけるよう『海と真珠と段々畑』という本を書いた。愛媛新聞で書評を掲載してくださることになり、遊子出身の女性記者Fさんが取材に来てくれたのだが、その時、照れ臭そうに「社で読んでいて、不覚にも泣いてしまいました」と言った。泣いた理由は聞かなかったが、地元の人にはつらい本だったに違いない。
私が小説に不慣れだったためか、売れ行きは芳しくなかったが、新幹線の中で読んでいて号泣したと手紙をくれた男性もいた。そう聞いても嬉しくない、複雑な気持ちだった。(2012.12.21掲載) |