書く仕事をしていると、時折、自分の先祖のことを書いてもらえないかと言われることがある。光栄だが、私にも書きたいと思って取材までしながら何年も手つかずのものがあるので、まずはそちらを優先しなければならない。私には、考えることやすることが突飛(とっぴ)な人、変わった経歴の人、日本で初めて何かをした人などがいるとついつい書きたくなる癖があるのだが、なにしろ時間がない。
井関(いせき)盛艮(もりとめ)という明治の人もそんな一人である。この人は宇和島出身で、幕末に伊達(だて)宗城(むねなり)のお供をして京都に行き、藩命を帯びた周旋方として各藩の藩士たちと交わった。維新後は伊藤博文や井上馨(かおる)、五代(ごだい)友厚(ともあつ)らとともに外国事務局判事に就任し、明治2年には若干36歳で神奈川県知事に就任。その後も新政府の官僚としてさまざまな役職に就いた。
面白いのは、明治3年、開港したばかりの横浜で、日本人による初めての日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊したことである。鉛活字の製法に成功した長崎のオランダ通詞(つうじ)・本木(もとき)昌造(しょうぞう)に協力を求め、外国図書検閲官の子安(こやす)峻(たかし)を編集者に迎えて、国内外のニュースをはじめ、出船、入り船の情報や生糸、米穀の相場などを報じた。
資料によると、神奈川県知事時代には、外国人のために屠殺場(とさつじょう)をつくって牛肉を提供し、保存用の氷室(ひむろ)を造ったり洋食店を開いたりしたというが、なかには悪い外国人もいたのか、外国人裁判や人身売買船の阻止といったこともしたとある。
さらにこの人が面白いのは、人物写真のコレクターだったことである。教科書や雑誌などでおなじみの勝海舟、近藤勇、木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作、三条実美(さんじょうさねとみ)、岩倉具視(いわくらともみ)らの肖像写真は井関の蒐集(しゅうしゅう)によるもので、今は東京の港郷土資料館に「井関盛艮コレクション」として収蔵されている。集めたというより、付き合いのあった人からもらったのではないかとも考えられており、そうであれば井関盛艮はもっと注目されていい大物なのかもしれない。
「横浜毎日新聞」発行所のあった横浜市中区には、「日刊新聞発祥の地」の碑は建っているが、井関の評伝はなさそうである。誰か、井関盛艮のことを書いてくれませんか。(2013.5.17掲載) |