私の文章は、よく「男っぽい」といわれる。最初はそれがどういう意味なのかわからなかったので、一度「女っぽい」文章とはどういうものかと、ある文学関係の人が激賞していた八幡浜出身の梅原稜子さんの小説を読んでみた。そしたら、なんと、読めなかった! 正確に言うと、読むには読んだのだが、ものすごく苦労した。そして私には、心の襞(ひだ)を丹念に描く女性らしい文章を書くことも、味わうこともできなくなったのかと、ショックだった。
私も昔は文学少女の端くれで、倉橋由美子や金井美恵子といった女性作家の小説をよく読んだものだった。そういう小説を読まなくなって久しいが、理由は仕事の本を読むのに精いっぱいで暇がなかったからである。
「男っぽい」というのは一見けなしているようだが、褒め言葉の一つらしいと最近気付いた。「中村さんの文章には無駄な形容詞がない。贅肉がない」と言っている顔は、どうも私の腹周りに付いた脂肪を皮肉っているのではなさそうだ、と思えたからである。
ライターが書く文章は、何ページ分で何文字までと決められることが多いから、私の場合、一度書き上げた文章をその行数にまで削ぎ落とすため、ほかのことばに置き換えたり、読点を取るという細かい作業に加え、段落ごと削除しても意味がわかるよう文章を変えてでも既定の行数内に納めるから、形容詞など入れたくても入れようがない、というのが実際のところである。
思えば、好きに書いてもいいはずの文章ですら、長年の習性で骨太にしか書けないというのは悲しい話だが、私の文章が男っぽい原因はどうやらほかにもあるらしく、あるとき、男性のカメラマンと子どもの将来について話していたら、「中村さん、そういうことは普通、男親が考えるものなんですけどね」と言われたことがあった。女親は目先のことで判断しがちだが、男親は比較的幅広い視野から物事を見る。若いときはなにも考えなかった私も、文章を書くうちに社会と関連づけ、多少広い視野でものを見るようになったのだろう。文章と考え方が相互に影響し合ってきたわけで、読むことも書くことも、人格形成には大事だなとつくづく思う。(2013.7.5掲載) |