第30回演奏会によせて
井手浩一(前音萌の会会長)
三十四年前の東高も夏は暑かった。夏休みになったら教室の窓を外し机も運び出して練習場にしたけれど、それでも風は通らなかった。合奏をしていたのは古い木造校舎(今はもうない)で、窓の外は一面の緑だったからコンクールというと夏草の匂いと蚊の襲来を思い出す。本館の廊下に机を持ち出して勉強している同級生を横目に、一日楽器を吹く。《美しい音》はピンと来ないが《大きい音》なら分かるから必死で吹く。練習が長くなると喉の奥がツンとする。まだ喉を開けるということは知らなかったが、そのうちに楽な吹き方を身体が覚えてくれた。午後になると練習を抜け出して水の冷たいプールに行く。今でもやっぱり井戸水だろうか。水泳部がいない時なら自由に泳げた。
当時はチューナーはないから耳だけが頼りである。一年上に誰もが認める耳のいい先輩がいて、妙な響きになるたびに彼が高いとか低いとか判定した。その頃は男性部員の方が多かったし、みんな気が短いからもめごとが絶えなかった。誰が指揮をするかでもめ曲の解釈でもめ自由曲の選択でもめた。今なら《マアマア》と仲裁に入る奴がいるが、全員血の気が多いからなかなかまとまらない。この雰囲気は現在のOB会にも受けつがれている。
その時代の小遣いの単位は五十円。古いOBの間では有名な『おかや』のあっさりそばが五十円。すぐ隣にあった『蟻屋』のソフトクリームも五十円。練習帰りだからこのうえない味に感じられた。どちらの店もずっと前に廃業してしまったが百円あれば《今日はおごってやる》と胸を張れた。あの頃学校に自販機はあったのだろうか。冷たい飲み物は正門前に買いに行った。コカコーラは高いから安くて量の多いペプシやチェリオを選んだ。ペットボトルも紙パックもない頃で、コーラのロング瓶はずっしりと持ち重りがした。
練習はまじめにしていたつもりだったが、中庭で野球をして相撲を取り、先輩に命令されて意味もなく廊下を走らされ、体育館で勝手にネットを張ってバドミントンをしていたのだから、正味の練習時間は少なかったのかもしれない。つまり学校が遊び場だった。街には金のない高校生がたむろ出来るような場所は存在しなかった。本屋へ行ってもレコード屋に行っても《欲しいなあ》と思って帰るだけで、まだカラオケはなくゲームセンターも気楽には入れず、学習塾も今のような巨大産業ではなかったから、時間だけはやたらにあった。
コンクールはあっさり負け、そうなると学校に行く気もせず補習もさぼって夏休みの後半はダラダラと過ごした。昨日まで音楽づけの毎日をすごしていたのが、終わったからといって急に机に向かえるはずがない。日活やATG映画なら、ここで非行に走るとか可愛い女の子との出会いがあるはず‥‥が実際には何も起こらないのが高校生活である。毎日昼近くまで寝て、することのない自分に苛立ちをおぼえながら、気にくわない近所の犬を追いかけ回したりしていた。
この原稿の途中で現役の高校生に質問してみた。《ヒマな時はどうやって遊ぶ?》同じ質問を先輩にもぶつけてみた。《昔はどうやって遊んでました?》返って来た答え。《うーん‥‥‥特に》《学校のプールでよく泳いだなあ》《銀映の一本百円の映画に行った》《お金がない時は公園で缶ケリをしてます》
‥‥ホントですよ。今高校一年の夏に戻れと言われたらカンベンして欲しいが、それでも懐かしい。二学期になったら嵐のような運動会の準備が始まり、その後は文化祭吹奏楽祭予餞会と続いて、二年生になったら退屈している時間はどこにもなかった。コンクールは負けても音楽との縁は切れず、いまだに夏になると音の渦の中に身体をおいている。もしかしたらあの空白の半月が人生最後のヒマな夏だったのだろうか。
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