【細川頼之、死す】

 

明徳記・・・・細川武州入道常久、聊風気ノ事有ト聞シカバ、三月二日ニ終ニ逝去シ給ニケリ。是ニ依テ(八幡ニ)御着参ハ延引トゾ聞シ。其ノ終焉ノ刻ニ、舎弟右京大夫頼元ヲ以テ御所ヘ申サレケルハ、近年山名ノ一族ノ者共、動モスレバ上意ヲ忽緒申由承及候間、何ノモシテ常久ガ命ノ内ニ、彼等ガ緩怠ヲ御誡メ有様ニ申沙汰仕ベキ所存ニ侍ツルニ、此者共天罰ヲ蒙テ候ツルヲ見ハテデ、常久死去仕候事、本意至極也。今ハ天下ニヲイテハ、上様ヲサミ(軽)シメ由者有ベシトモ覚エズ候間、毎事心安テ、思置進ラスル事モ侍ラズ。又当職ノ事ハ、頼元短慮モウマイ(蒙昧)ノ身ニテ、定其器ニアラザル者也。然ル可ク様ニ御計沙汰有ツテ下サレバ、畏存ベキ由、宣モハテズシテ、事切サセ給ニケリ。京兆(頼元)ヒルイヲ押テ御所ヘ参テ、此由ヲ申上ラレケレバ、上様モ以ノ外ニ御愁傷有テ、サウサウ(葬送)ノ日ハ嵯峨マデ御出成テ、御悲歎ノ御気色御涙ニ顕レシカバ、御幼少ヨリ奉公ノ忠義ヲ思食忘サセ給ハヌ御志ノ至リ、有難サハイカバカリ、草ノ陰マデモ忝ナク思給フラント、袖ヲヌラサヌ人ハ無シ。御所様御還御成セ給シカバ、軈テ鹿苑院ニ御座有テ、毎日座禅ノ御訪、七日々々ノ仏事ネムゴロニ仰付ラレテ、円頓一乗御真御文ヲ自ラアソバシテ、彼追善ニギセシカバ、高キモ賤キモ、一天下ノ人オシナベテ、此御志ノ忝ナサ、忠節ヲ尽スナラバ、誰ヲモ角コソ思召レンズレト勇ム心ノ有ニ付テ、ソゾロニ袖ヲヌラシケル。   (「群書類従:新校 第十六巻」 内外書籍 昭和3年)

 

讃州細川記・・明徳三年三月二日、頼之公享年六十四歳ニシテ逝去シ給ヒ、永泰院殿桂厳大禅定門ト諡ス。此由京都ヨリ飛脚到来シケレバ、屋形ヲ始各驚騒シテ慟哭更ニ涯ナシ。誠ニ君ニ忠有テ一毫ノ私ナク、下愛仁ノ浪澤(うるおふ)テ、古今少ナル文武二道ノ賢将ニテオハシマシケレバ、賤ノ雄賤ノ雌ニ至マデ惜マヌ者ハ無リケリ。其上井原士中ハ多年飽マデ恩沢ニ浴シケレバ、皆考妣ヲ喪スルガ如ク歎キ悲ム事カギリナシ。仏地院ハ、御ユカリノ人ニテ殊ニ恩光受シ寺ナリシカバ、一七日の法会を営ミ、井原士中ノ男女法筵ニ連リ泪ニ咽ビ香ヲ捻(ひね)ル。則永泰院殿ノ廟ヲ境内ニ築キ、井原士中月々廟参ス。又冠尾山ノ辺ニモ御墓ヲ封スト云フ。過シ康暦ノ頃、御勘気ヲ蒙リシモ、後ヒソカニ承リシカバ、是全ク公ノ陰徳ノ謀也。其頃、将軍幼穉ニオハシマシケレバ、諸国ノ大名侮リ奉テ権ニ恐奉ザリケレバ、公潜ニ周阿ニ相談有テ、幼君ニ申フクメ、自過ヲ巧テ御勘当ヲ受ケルトゾ。サレバ諸大名会合シテ、管領武州サヘカクノ如ナレバ、新将軍ノ御才覚、最ト恐シシト申ツブヤキ合シトカヤ。   (頼之逝去之事;「香川叢書 第二」所収)

 

 

         明徳の乱(⇒)が収束してから僅か2ヶ月後の明徳3年3月2日、細川頼之はふとした風邪が元で体調を崩しそのまま亡くなってしまった。10年間の閑居の後で慌ただしく上京して将軍を補佐し、一番の懸案であった山名氏の討伐も無事に終わり気が緩んだ隙の病魔であったのだろう。義満は悲嘆に暮れ鹿苑院で座禅と写経に明け暮れたと「明徳記」にはあるが、案外、腹の底では「良いときに死んでくれた。」とほくそ笑んでいたかもしれない。次の標的は大内義弘や今川了俊、さらには次第に反抗的になる関東公方も控えており、特に九州で勢力拡大を図る了俊を粛清することは義満の養母である渋川氏(一族は了俊以前の九州探題)からの圧力もあって喫緊の課題であったが、了俊と頼之は盟友でもあることから、なかなか決断することができないでいたのである。しかし、この年の暮れには念願の南北朝統一もあり両者が組んで南朝に下るという憂慮もなくなったので2年後には早々と了俊を解任し、遠江と駿河半国の守護に押し込めることに成功する。頼之の死により最も貧乏クジを引いたのが今川了俊であり、最もクジ運がよかったのが義満と言えるだろう。この時期の頼之の死は政治的には思いがけない“棚ボタ”であったからで、その後も細川氏が粛清されなかったのは、やはり頼之の余光によるものと思いたい。一方、「讃州細川記」にあるように讃岐の岡城を始め、股肱の臣である井原侍(⇒)の悲嘆ぶりは至極もっともで、頼之がしばしば訪れ月を愛でた仏地院に集まって忌引法要をおこない、懇ろにその菩提を弔ったのである。現在も高松市香南町の仏地院立善寺には、頼之の供養塔と思われる立派な五輪塔が保存されている(⇒)。

         「細川頼之補伝(上下)」(細川潤次郎著 明治24年刊)には、江戸時代に編纂された「後太平記評判」内の或る人の頼之評として「頼之、智仁勇三徳備ハル良将トハ言ヒ難シ、其故ハ勘気ヲ蒙ムルコト両度、権職ニ復ルコト再三、又一族細川清氏ヲ討テ賞ヲ貪ルコト数度、伊予ノ河野ヲ滅シテ其国ヲ奪フ。此ノ如キ人ヲバ良将トハ言ヒ難シト。」と記載されているという(⇒)。一々、議論する気にもなれないが、何時の世でもこうした“アンチ”を声高に申し立てて注目を得ようとする輩があるのは現代も同じである。このうち、「勘気ヲ蒙ムルコト両度」のうちのひとつが「讃州細川記」に記されている。これは、義満が二十歳の頃、頼之が諸大名の居並ぶ前で「君未ダ幼弱ニオハシマシテ、早酒色ヲ好セ給事恐レナガラ御僻言ニ候、天下ヲ有ツ者ハ第一其身ヲ謹マザレバ、国乱ルル基ニ候。」と憚りなく諫言したところ、将軍は不機嫌そうに一言も発せずに退座し、翌日、「主君に対する諫言を諸大名の面前でおこなうのは忠心ではなく佞姦(心が邪なこと)である。」と大いに立腹し細川一族の館を焼き討ちにしたという逸話である。まあ、義満の性格からすれば十分にあり得ることではあるが、一説には諸大名に将軍の威厳を示すために頼之と義満が一芝居打ってワザと勘気を蒙ったというのだ。頼之贔屓の小生としては、こちらの方を信じたいところなのだが・・。細川清氏との戦いにしても、本気で和氏系の血統を絶やそうと目論むならば嫡男の昌氏が阿波に潜むのを許さないだろうし(⇒)、伝説とはいえ清氏の庶子である美津次丸が東讃の石田の地で養育できる筈もない(⇒)。さらに清氏の弟である業氏はその後も頼之の推薦で幕府の要職に就いているのである(⇒)。敵になっても一族を大切にする頼之の寛容さを賞賛こそすれ、「賞ヲ貪ル」など見当違いもいいところである。むしろ、原因はすべて将軍家側の一方的な都合にあり、頼之はその命に忠実に従ったまでのことであり「君、君たらずとも、臣、臣たらずべからず」を全うした希有な良将と言うべきであろう。ともあれ、最も憂慮した最大の強敵の山名氏を、子のない頼之が我が子同然に育て上げた義満が陣頭に立って討伐できたことに満足して「今ハ天下ニヲイテハ、上様ヲサミ(軽)シメ由者有ベシトモ覚エズ候間、毎事心安テ、思置進ラスル事モ侍ラズ」と安らかに瞑目したに違いない。戒名は「永泰院殿桂巌常久大居士」、相国寺で葬儀の後火葬にされ、墓所は洛西の地蔵院にある。

 

図1.「金毘羅参詣名所図会」に描かれる田潮八幡宮の「頼之の松」。(「国立公文書館アーカイブス」より転載、一部合成)

 

         一連の細川頼之関係記事の締めくくりとして、田潮八幡宮(香川県丸亀市土器町)付近に残る頼之の遺跡を紹介したい。図1.は、「金毘羅参詣名所図会」に描かれる田潮八幡宮の「頼之の松」。「細川右馬頭頼之ここに陣し士卒を指揮せし古跡なりと云。細川は足利の氏族にして建武の始、細川卿律師定禅、当国に旗をあげ国中をなびかせしより刑部大輔頼春蹟をつぎ夫より右馬頭頼之に及ぶ。貞治元年、細川相模守清氏と合戦の時、宇多津に城を築き、其後伊予の河野攻るもすべて此辺軍率掛引の場所なるべし。又此より二三丁傍魚砂(産砂)といへる所に松原の林あり、土俗駒ヶ林といふ。是も頼之、味方の駒をそろへし地なりとぞ。」と説明されている。当時は宇多津に頼之の居館があったから出陣に際してこの辺りに駒揃えをおこなうのは尤もなことと思われる。面白いのは「白峰合戦記」(⇒)でも触れたように、清氏との決戦にあたって、西長尾城の中院源少将(⇒)が先手を打って田潮八幡宮付近の頼之の陣地に攻撃を仕掛けたものの、急に潮が満ちてきて危機を脱したことに感謝して八幡宮を勧請し松を手植えしたと言われ、神輿を土器川に担ぎ込む“水浴び神輿”もこの伝説に基づく神事という。宇多津の円通寺と同様、枝振りも見事な黒松の巨木であったが、「土器村史」によると明治45年に惜しくも枯死してしまい今は石碑だけが残っている(図3左.)。同書に写りは悪いが、在りし日の「頼之の松」「駒ヶ林」「右馬頭」の写真があるので転載させていただく(図2.)。神社境内におられた奥様にもお訊きしてみたが、これ以外に松の写真は見たことがなく、神社にも保存はされていないとのことであった。軍勢を揃えたという「駒ヶ林」も神社の北方、県道33号線(旧国道11号線)の南に「丸亀陸軍墓地」となってひっそりと残っている。次第に松の古木も枯れ、傾いた墓石がこころなしか過ぎゆく時の侘しさを感じさせてくれる。

 

図2.「土器村史」内の「駒ヶ林」、「頼之の松」、「右馬頭」の古写真。

 

  

図3.田潮八幡宮傍らにある「頼之の松」の記念碑(左)と、枯松が痛々しい現在の駒ヶ林(右)。2025.1.4 撮影。

 

         「右馬頭」は、その名の通り頼之に関係する祭場と思われるが、各地にある農耕馬を祀った「馬ノ神」かもしれず詳しい由来は土地の人もわからないとのこと。この怩ヘ丸亀歩兵第12連隊の射撃演習場であった雁又池へと続く“兵隊道”の傍らにあり、怩フ様子を写したモノクロ写真(図4.左;「丸亀の歴史散歩」(直井武久著 昭和57年))もあるので、池へと続く道沿いを捜してみたが見つからなかった。付近は新しい家屋の造成も進み、あるいはすでに敷地の下に埋没してしまったか・・と失望していたところ、畏友の竹内秀夫君(県立丸亀高等学校校長)が探し出して写真を送ってくれた<(_ _)>(図4.右)。周囲は家やアパートに囲まれ、その盛り土の影響で怩フ方が低くなってしまっているが、後方には古い祠の残欠もそのまま保存され真新しい石標も心強い。“兵隊道”とあるので広い道とばかり思っていたが実際は畦道程度で、住宅裏の隙間にひっそりと祀られていた。最近は変貌著しいとはいえ、いずれも石清尾八幡宮の伝説(⇒)とはまたひと味違う、西讃における貴重な頼之の遺跡群として後世に大切に語り継いでもらいたいと願うのみである。

 

   

図4.昭和57年頃の右馬頭(左;「丸亀の歴史散歩」(直井武久著)より転載)と、現在の様子(右;竹内秀夫君撮影)。

 

 

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