単行本第1号

 当社が最初に出した単行本は、犬伏武彦氏の『雲湧く村─惣川(そうがわ)・土居家』という本だった。山深い惣川(旧野村町)で静かに朽ち果てようとしていた巨大な茅葺き民家を後世に残すため、たびたびこの地を訪れて村人たちを説得し、2万束という膨大な茅が集まった段階で170年ぶりに修復されることになった、その経緯をまとめたものである。
 犬伏氏は文芸誌「文脈」に「山奥組・土田家」というタイトルで、フィクションを交え、土居家や村の人たちとのまじわりを小説にして発表していた。それを読んだ私は心を打たれ、惣川や土居家の歴史、修復の過程を、地方の貴重なドキュメンタリーとして残しましょうと申し入れたところ、氏は快諾し、本にすることになった。当社の単行本第1号である。
 ただ、犬伏氏はそのころ松山工業高校の教諭をしていて時間に制約があったため、修復過程の撮影は仕事仲間の垂水(たるみ)謙庄(けんしょう)カメラマンに依頼することにした。彼は何度も泊まり込みで惣川に行き、村の暮らしのほか、茅葺き作業や修復のようすなどを撮ってくれた。本の表紙に使った茅を刈り込む職人さんの姿は、竹で組んだ足場をびびりながら上って撮った垂水カメラマンのベストショットである。
 犬伏氏が過去に撮ったたくさんの美しい写真もあり、そのなかにいくつも雲の湧く写真があったことから、私は本の題にそのことばを入れることを提案した。高いところでは標高が700メートルもある惣川地区は、まさしく雲湧く村であった。
 この本は出ると評判になった。犬伏氏は県内に残るさまざまな民家修復について相談を受けるようになり、宇和島市(旧三間町)の旧庄屋毛利家などは、まだ茅葺き職人が愛媛にいるのなら、自分たちも茅を集めようと地域で運動が高まり、修復が行われた。地域の歴史を物語る旧家をいかに修復・保存するかは、所有者一人の問題ではなく、まち全体で取り組むことだというふうに意識が変わりつつあった時代だった。
 本はただ読まれるだけでなく、人を動かす力がある。私たちが世に出した第1号は、それを実感できた幸運な出版物であった。(2012.11.2掲載)

1.ライター稼業40年 2.地方のライター 3.ジ・アースとアトラス 4.アトラスの思い出 5.単行本第1号
6.調べる楽しさ 7.出版というオバケ 8.平均的読者像とルビ 9.文化の喪失 10.編集って、何
11.義士祭とベアトの写真 12.泣かせてしまった本 13.後に続くことば 14.原野に挑んだ人 15.視覚化の醍醐味
16.本の「顔」 17.書く力とは 18.文化財修復と犯罪 19.読む力と想像力 20.木蠟は何に使われた
21.宇和島のヘルリ 22.図書館とのおつきあい 23.サイド・バイ・サイド 24.土井中照さんのこと 25.本のお土産
26.予期せぬ出来事 27.題字は大事だよ 28.生きてるだけで丸儲け 29.掲載ビジネス 30.牛島のボンちゃん
31.おじいさんの自慢 32.編集者の言い分 33.書いてくれませんか 34.隈研吾さんと南京錠 35.幻の出版物
36.高島嘉右衛門と三瀬周三 37 声が聞こえる写真 38.翻訳 39.骨のある出版社 40.男っぽい文章
41.人生のダイジェスト 42.どう書いたら…… 43.消える仕事 44.近欲の風潮 45.運転免許の話
46.目に見える被害 47.過疎の町にパティシエを 48.講演は苦手です 49.カッコ付き市民の意見 50.父の信号
51.文化の繰り上がり 52.出版社の存在意義      
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