私は自社の本をつくるとき、若者を読者対象から除外することにしている。自分自身が若かったときを振り返っても、中央のことだけを見て地元の文化や歴史にはまるで関心がなかったからである。文化や歴史という目に見えないものは、年齢を重ね、目に見えるものを見尽くさなければ関心が向かない。これは厳然たる事実だと思っている。
また本当かどうか、読者は4つ以上読めない字が続くと、読むのをやめるそうである。私は「ひとに読まれる本をつくる」のをモットーにしていて、魅力ある内容や誌面づくりはもちろんのこと、なるべく読みやすい、やさしい文章を心がけてきたつもりだが、若い人を対象にすれば、単純に読めない漢字にルビ(ふりがな)を振り、とにかく読めるようにする必要が出てくる。ルビを振るのは面倒だし、あまり数が多いと紙面がごちゃごちゃした感じになるので、なるべくなら入れたくない。
それは若者を馬鹿にし過ぎではないかと叱られるかもしれないが、いまはテレビ局のアナウンサーですら時々読み間違いをし、私はきれいな女性アナウンサーがすました顔で枝垂れ桜を「えだたれざくら」と読むのを聞いて吹き出したことがある。こんなのは序の口で、ある若者は温厚なおじいさんを意味する好々爺を「すきすきじじい」と読んだ。これではとんでもない好色じいさんで、まるで意味が逆である。
当社で大洲の古学堂(こがくどう)を守り続けた常磐井(ときわい)忠香(ただか)さんの『大洲・肱川の畔にて』を出版したとき、名前にはルビが要ると思ったが、ふと心配になり、「畔にもルビが要るよね」と発行人に言った。「そんなの要らんよ。題名にルビを振るなんてカッコ悪い」と反対されたものの、なかば強硬に入れたのだが、それでもある人が電話で、「大洲・肱川のみさきにて」と注文してきた。
本を出すなら、すべての人は無理にしても、一人でも多くの人に読んでもらいたいと誰もが願うはずである。私は出版という厳しい道を歩みながら現実路線を取って編集してきたつもりだが、一体、平均的読者とはどのような人か、年々イメージが思い浮かばなくなっている。(2012.11.23掲載) |