昨年、大洲市発行の『水郷の数寄屋 臥龍山荘』の本を書かせてもらった。
この取材で、それまで不明だった施主・河内(こうち)寅次郎(とらじろう)についていろいろなことがわかり、さらに興味を持つこととなったのだが、特に内子や大洲の製蠟(せいろう)業者に莫大な富をもたらした〝蠟の輸出〟について強い関心を持つようになった。一口に蠟といっても種類が多いので、ハゼから採った木蠟(もくろう)はベジタブルワックスと表記され、寅次郎が神戸に設立した「喜多組(きたぐみ)」によって輸出された。だが、その用途がはっきりしない。
幕末のころ、日本の近海にはたびたびアメリカの捕鯨船が現れ、鯨を捕ると肉は捨て、脂肪を船上の釜で溶かして樽で持ち帰った。それに使う薪を手に入れるためたびたび日本に上陸し、そこで生じた軋轢(あつれき)がやがて強硬な開国要求となり、黒船騒ぎになるわけだが、この鯨油は灯火用の燃料油のほか、当時ヨーロッパやアメリカで勃興した紡績機の潤滑油としても使われた。
木蠟のことを調べているうち、木蠟も紡績と関係があるらしいということがわかった。木蠟の用途としては、ろうそく、化粧品、石鹸、皮革・木工品の艶出し、さび止め、鋳型(いがた)などいろいろあるのだが、〝織布の糊剤〟として使われた節がある。綿織物を織る前の整経作業で、白蠟・ゼラチン・でんぷんなどを混ぜたものを薄め、その中に糸を通して乾燥させ、布を織ると、糸切れが少なくなり、作業能率が上がったというのである。ミシン用の糸にカタン糸というのがあるが、カタンはコットン(綿)が訛(なま)ったもので、ロウ引きした綿糸のこと。確かに普通の綿糸より切れにくい。
世界で最初に産業革命が起こったイギリスは、先進工業国として世界各地から原料を輸入し、作った工業製品を世界中に輸出して「世界の工場」と呼ばれた。綿織物で有名だったのはマンチェスターである。神戸から輸出された木蠟は、ドイツの商人により、貿易国を隠蔽(いんぺい)するために香港に一旦輸出をし、そこから世界各地に送られた。そのため、どこの国にどのような用途で送られたのかわからない。
明治の半ば、日本の貿易品として彗星(すいせい)のように現れ、消えていった木蠟。不思議な産物である。(2013.2.15掲載) |