先日、福島県会津若松市にある出版社の社長さんが、会津の風土をテーマにしたテレビ番組に出ていた。幕末、会津藩は京都守護職を務め、幕府方の中核となったために朝敵(ちょうてき)となり、戊辰(ぼしん)戦争で敗北した。会津藩士の遺体は、賊軍として新政府軍が埋葬を許さなかったため、城下のそこかしこで腐乱し、目を覆わんばかりの惨状であったという。その社長さんは、市役所で市史編纂の仕事をしていてそうした史実を知り、「私には後世に伝えねばならないことがある」と40歳前に仕事を辞め、出版社を起こしたという。「ならぬことはならぬ」という、いかにも会津らしい出版人である。
以前、東京で地方出版社だけの集まりがあったのだが、沖縄からの参加もあり、「沖縄には100社以上、出版社がある」と聞いて驚いたことがあった。もっとも、その中にはたった1冊しか出版しなかったところもあるとかで、どうやら、どこも出してくれないなら自分で出版社を作って出す、という例もあったらしい。沖縄には基地の問題があり、戦争や占領の歴史もあるから、「書かずにおれるか」という強い思いの本も多いはずで、いかにも沖縄らしいなあと思ったものである。
九州には、アフガニスタンやパキスタンで、20年以上医療活動を続けてきた中村哲という医師の本を出し続けてきた出版社もある。近年は、戦争によって荒廃した国土を回復させようと、灌漑や農業事業にも携わっているそうで、出版社もNGO(非政府組織)の事務局として活動を支えている。
振り返って、さて当社はというと、そうした骨のある出版社には及びもつかない文化路線の出版社である。愛媛という土地柄もある、というのは逃げ口上で、実際のところ、非力な私たちはこのやり方でしか存続し得なかった。
いつも私たちを助けてくれている知人のMさんは、出版社の出す本には3種類あると言う。1つは「出したい人の本」、2つめは「出版社を維持するための本」、そして3つめが「世の中のために、出さなければならない本」だという。確かに、社会的使命ばかりを言いたがる出版人は、すぐに赤貧洗うがごとき状況に陥るものだが、私たちはなんとか20年、この仕事を続けることができた。骨はないが、一生懸命だった。
(2013.6.28掲載) |