世の中には、心に思ったことをそのまま口に出す人がいる。相手がどう思おうがお構いなしで到底おとなとは思えず、「なんだか小学生並みだなあ」と内心思う。しかし私が原稿を代筆する仕事を依頼され、聞き取りをしたときは、なぜ心の内をそのまま語ってくれないのだろうと何度も思った。
依頼主に代わり、その人の気持ちで書くからには、きれいごとだけでは済まない。たとえば人生において二者択一を迫られたとき、どちらの道を選ぶかといったことは経験によって決めることが多い。いくら人生をなぞって書いても、読む人に「この人は、こういう理由でこうしたんだ」という必然性が感じられなければ理解されない。だからこちらは、今までにあった良いことも悪いこともすべてひっくるめ、うわべを取りつくろった言葉ではなく、本当の気持ちを引っ張り出そうとする。
しかし、人には思い出したくないことや言いたくないこともある。「大丈夫です。聞いてもそのまま書きませんし、書いたことが気に入らなければ削除すればいいんですから」といくら言っても、聞かれること自体嫌なのだろう。本人なら嫌な思い出は回避すればいいが、他人の私はそこを突くから、もう出版などやめようというくらい対立することもある。それでも、聞いたことで否応なくその出来事や行為を見つめるのか、自分を客観視し冷静になると、また話してくれるようになる。そうなるとひと山越えたような感じで、そこから先はスムースに行く。
厳しい世界に生きた人ほど、ストレートな表現ではなくオブラートに包んだ表現をする。こちらは聞いたことを咀嚼(そしゃく)し、別の言葉に置き換えて表現をするわけだが、いわゆるニュアンス(微妙な意味合い)の違いで、相手もなんとなく違和感があるのに、それを的確に言えないのでもどかしい思いをしたりする。だがその違和感は、本人が書かない限り、誰が書いてもつきまとう。長い人生のすべてを語れるわけではないし、出版物は人生のダイジェストでしかないからだ。
それでも本が出来上がると、記録として残せたことに満足と感慨を覚えるのか、みな感謝してくれた。私も闘い終えたような気持ちで、安堵した。
(2013.7.12掲載) |